試みにここに若干の駄句《だく》を連ねてみる。

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草を吹く風の果てなり雲の峰
 娘十八|向日葵《ひまわり》の宿
死んで行く人の片頬《かたほ》に残る笑《えみ》
 秋の実りは豊かなりけり
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こんな連続《コンチニュイティ》をもってこの一巻の「歌仙式《かせんしき》フィルム」は始まるのである。それからたとえば

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踊りつつ月の坂道ややふけて
 はたと断えたる露の玉の緒
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とでもいったような場面などがいろいろあって、そうして終わりには

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葬礼のほこりにむせて萩尾花《はぎおばな》
 母なる土に帰る秋雨
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 これらの映画を見たあとで国産の「マダムと女房」を見た。これは新式のトーキーだという話である。どれだけのところに独創的な機構の長所があるのか知ることはできないが、ともかくもトーキー器械としての役目をある程度までは果たしているようである。そうしてまず、始めから終わりまで見た後の自分の印象からいうと、それほどいやで見ていられないような場面や、退屈で腹の立つような長町場《ながちょうば》もない。善良なる一日本人として時々は愉快な笑いを誘われるところもある。これをあの実に不愉快にして愚劣なる「洛陽《らくよう》餓《う》ゆ」のごときものに比べるとそれはいかなる意味においても比較にならぬほどよい。「スピード・アップ・ホー」の合唱のごときはなはだばかげていてノンセンスではあるが、そのノンセンスの中にはおのずからノンセンスの律動的な呼吸があるから、ともかくもあまり人を退屈させない。役者も一人一人に見るとなかなかよく役々を務めて申し分ないもののようである。しかしこの映画全体を一つの芸術品として批評し、そうしてこれを「パリの屋根の下」や「大地」と比較し、そうしてまた、フランスならびにロシアに対する日本のものとして見ようとする際には遺憾ながら私は帝劇の真夏の午後の善良なる一人のお客としての地位を享楽することの幸福を放棄しなければならなくなるのである。
 たとえば文士|渡辺篤《わたなべあつし》君の家庭の夜の風景を表現するとして、そうしてねずみが騒いだり赤ん坊が泣いたり子供が強硬におしっこを要求したりして肝心の仕事ができぬという事件の推移を表現するにしても、何もあれ
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