いくらでもあげられるであろうと思われる。
 しかしこういう種類の技巧は芸術としての映画が始まって以来、おそらく常套的《じょうとうてき》に慣用されて来た技巧であって、それがさまざまな違った着物を着て出現しているに過ぎないものであって、こういうことはまた、自分自身の頭を持って生まれることを忘れた三流以下の監督などが、すぐにまねをしたがり、またある程度まではだれでもまねのできることである。
 また音響効果のほうでも、たとえば立ち回りの場で、すぐ眼前を通過する汽車の響きと、格闘者の群れが舗道の石をける靴音《くつおと》との合奏を聞かせたり、あるいはまた終巻でアルベールの愛の破綻《はたん》と友情の危機を象徴するために、蓄音機の針をレコードの音溝《おんこう》の損所に追い込んでガーガーと週期的な不快な音を立てさせたり、あるいは、重要でない対話はガラス戸の向こう側でさせて、観客の耳を解放し、そうすることによって想像力を活動させるほうに観客のエネルギーを集注させ、そうしてかえって所要の効果を強めたりするのも、これらも決しておもしろくないことはない。これらは発声映画と無声映画との特長をそれぞれ充分に把握《はあく》した上で、巧みに臨機にそれを調合配剤しているものと判断されることはたしかである。しかしこのような見え透いた細工だけであれほどの長い時間観客を退屈させないでぐいぐい引きずり回して行くだけの魅力を醸成することはできそうに思われない。それにはもっともっと深い所に容易には簡単な分析的説明を許さないような技術が潜伏しているに相違ないと思われるのである。
 自分の感じたところでは、この映画の最もすぐれた長所であり、そうして容易にまねのできそうもないと思われる美点は、全巻を通じて流れている美しい時間的律動とその調節の上に現われたこの監督の鋭敏な肌理《きめ》の細かい感覚である。換言すれば映画芸術の要素としての律動的要素の優秀なるできばえである。従って一つの楽曲のおもしろさを貧弱な人間の「言葉」と名づける道具で現わすことが困難であると同様にこの映画の律動的和声的要素の長所を文字の羅列《られつ》で置き換えようとすることは、始めから見込みのないことでなければならない。
 音楽における律動的要素の由来は、学問的に言えばなかなかむつかしい問題であろうが、素人流《しろうとりゅう》に言えば、要するに人間という
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