る。
「パリの屋根の下」にはたいしたドラマはない。ちょっとしたロマンスはあるが、それはシャボン玉のようなロマンスである。ちょっとしたけんかはあるがそれもシャボン玉のようなけんかである。ピストルも一発だけ申し訳にぶっ放すが結果は街燈を一つシャボン玉のようにこわすだけである。この映画の中に現われている限りの出来事と達引《たてひき》とはおそらくパリという都ができて以来今日に至るまでほとんど毎日のようにどこかの裏町どこかの路地で行なわれている尋常|茶飯《さはん》のバナールな出来事に過ぎないであろう。それほどに平凡な月並み、日並み、夜並みの市井の些事《さじ》がカメラと映写機のレンズをくぐり録音器の機構を通過したというだけでどうして「評判の映画」となり、世界じゅうの常設館に渡り渡って人を呼ぶであろうか。もちろん観客の内の一部はたぶんそれが評判の映画であるために見ないうちから感心してそうして無条件にその評判をのみ込んでしまうであろうが、すべての観客はそれほどの鵜《う》の鳥でない限りこの評判には何かの実証的根拠があるはずであろう。
この映画にもやはりだれでもすぐに気のつく、そうしてだれにでも簡単な言葉で表現されうるようなうまい見せ場はたくさんある。たとえばいちばん始めに映出される屋上の「煙突のある風景」が最後にもう一度現われて、この一巻の「パリのスケッチ」の首尾の表軸となり締めくくりをつけていることなどがそれである。また始めにはカメラが、従って観客が、あたかも鳥にでもなったように高い空からだんだんに裏町の舗道におりて行って歌う人と聞く人の群れの中に溶け込むのであるが、最後の大団円には、そのコースを逆の方向に取って観客はだんだん空中にせり上がって行って、とうとう天上の人か鳥かになってしまう。そうして地獄を見物に行って来たダンテのように、今見て来た変わった世界の幻像をいつまでもいつまでも心の中で繰り返し蒸し返すように余儀なくされるのである。あるいはまた艶歌師《えんかし》アルベールが結婚の準備にと買って来た女のスリッパーを取り出す場面と切り換えに、ポーラが自分の室《へや》ではき古したスリッパーをカバンにしまっているシーンが現われたり、またアルベールが預かったカバンの係り合いで捕われて行くのとポーラが重いカバンをさげて嫁入りして来るのとをぶつからせたり、こういう種類の細かい技巧をあげれば
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