生理的機関の構造によって規定されたいろいろの物理的振動の週期性、感官や運動機関の慣性と弾性と疲労とから来る心理的な週期性、なおまた人間常住の環境に現われる種々の週期性、そういういろいろな週期に対するわれわれの無意識的な経験と知識から生まれて来る律動の予感、あるいは期待がぐあいよく的確に満足されるということが一つの最重大な基礎となっていることは疑いもないことである。平たく言えばわれわれが自然に踊り回ると同じリズムの音楽でなければ踊る気にもなれず、また踊ろうにも踊られぬわけである。
「パリの屋根の下」における律動的要素の著しい場面をあげると、たとえば二度目にアルベールが舗道で前とはちがった第二の歌を歌っているシーンである。歌っているアルベールの大写しの顔と交互に彼を取り巻いているいろいろな顔が現われる。一番目の同じようなシーンでは観客はまだそこに現われる群集の一人一人の素性について何も知らなかったのであるが、この二度目の同じ場面では一人一人の来歴、またその一人一人がアルベールならびに連れ立った可憐《かれん》のポーラに対する交渉がちゃんとわかっている。掏摸《すり》に金をすられた肥《ふと》った年増《としま》の顔、その密告によって疑いの目を見張る刑事の典型的な探偵《たんてい》づら、それからポーラを取られた意趣返しの機会をねらう悪漢フレッド、そういう顔が順々に現われるだけでそれをながめる観客は今までに起こって来た事件の行きさつを一つ一つありありと思い出させられる。そうしてなじみになったアルベールとポーラのために一種不安な緊張を感じさせられる。それでアルベール自身の頭の中に経過しつつある不安な警戒の念が彼の絶えず移動する目のくばりに現われて、それが直ちに観客の頭に同じような感情の波動を伝えるのである。そうしておもしろいことにはこのシーンの伴奏となりまた背景ともなる音響のほうはなんの滞りもなくすらすらと歌の言葉と旋律を運んで進行していることである。もしもこれが無声であるかあるいは歌はあってもこの律動的な画像がなかったとしたら効果は二分の一になるどころかおそらくゼロになって、倦怠《けんたい》以外の何ものをも生じないであろう。
 この律動的編成の巧拙の分かれるところがどこにあるかと考えてみると、これはやはりこの画面に現われたような実際の出来事が起こる場合に、天然自然にアルベール、すなわ
前へ 次へ
全32ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング