映画時代
寺田寅彦
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)高知《こうち》の
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一度|浅草《あさくさ》で
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)おはこ[#「おはこ」に傍点]
−−
幼少のころ、高知《こうち》の城下から東に五六里離れた親類の何かの饗宴《きょうえん》[#「饗宴」は底本では「餐宴」]に招かれ、泊まりがけの訪問に出かけたことが幾度かある。饗宴の興を添えるために来客のだれかれがいろいろの芸尽くしをやった中に、最もわれわれ子供らの興味を引いたものは、ある大工さんのおはこ[#「おはこ」に傍点]の影絵の踊りであった。それは、わずかに数本の箸《はし》と手ぬぐいとだけで作った屈伸自在な人形に杯の笠《かさ》を着せたものの影法師を障子の平面に踊らせるだけのものであった。そのころの田舎《いなか》の饗宴の照明と言えば、大きなろうそくを燃やした昔ながらの燭台《しょくだい》であった。しかしあのろうそくの炎の不定なゆらぎはあらゆるものの陰影に生きた脈動を与えるので、このグロテスクな影人形の舞踊にはいっそう幻想的な雰囲気《ふんいき》が付きまとっていて、幼いわれわれのファンタジーを一種不思議な世界へ誘うのであった。
ジャヴァの影人形の実演はまだ見たことがないが、その効果にはおのずからこの田舎大工の原始的な影人形のそれと似通《にかよ》った点がありそうに思われる。踊る影絵はそれ自身が目的ではなくて、それによって暗示される幻想の世界への案内者をつとめるのであろう。
それはとにかく、もし現代の活動映画が「影の散文か散文詩」であるとすれば、こういう影人形はたとえば「影の俳句」のようなものではあるまいか。
幻燈というものが始めて高知のある劇場で公開されたのはたぶん自分らの小学時代であったかと思う。箸と手ぬぐいの人形の影法師から幻燈映画へはあまりに大きな飛躍であった。見て来た人の説明を聞いても、自分の目で見るまでは、色彩のある絵画を映し出す影絵の存在を信ずる事ができなかった。そして始めて見た時の強い印象はかなり強烈なものであった。ホワイトナイルの岸べに生まれたある黒んぼ少年の数奇な冒険生涯《ぼうけんしょうがい》を物語る続きものの映画を中学校の某先生が黄色い声で説明したものである。それからずっと後の事ではあるが日清戦争《にっしんせんそう》時代にもしばしば「幻燈会」なるものが劇場で開かれて見に行った。県出身の若き将校らの悲壮な戦死を描いた平凡な石版画の写真でも中学生のわれわれの柔らかい頭を刺激し興奮させるには充分であった。そしてそれらの勇士を弔う唱歌の女学校生徒の合唱などがいっそう若い頭を感傷的にしたものである。一つは観客席が暗がりであるための効果もあったのである。同じ効果は活動写真の場合においても考慮に加えらるべきであろう。
疾《と》くに故人となった甥《おい》の亮《りょう》が手製の原始的な幻燈を「発明」したのは明らかにこれらの刺激の結果であったと思われる。その「器械」は実に原始的なものであった。本箱の上に釘《くぎ》を二本立ててその間にわずかに三寸四角ぐらいの紙を張ったのがスクリーンである。ほぼこれと同大のガラス板に墨と赤および緑のインキでいいかげんな絵を描いたのをこの小さなスクリーンの直接の背後へくっつけて立てて、その後ろに石油ランプを置くだけである。もっともそのスクリーンの周囲の同平面をふろしきやボール紙でともかくもふさいでしまって楽屋と見物席とを仕切るほうがなかなかの仕事ではあった。観客は亮の兄弟と自分らを合わせて四五人ぐらいはあったが、映画技師、説明者が同時に映画製造者を兼ねるのみならず、肝心のガラス板がやっと二枚ぐらいしか掛け替えがないのだから亮の骨折りは一通りでなかったろうと思われる。後には自分の父に頼んでもう少し大きい板ガラスを、ちゃんとした木箱の前面のみぞにさし入れさしかえるようにしたものを大工に作らせ、映画も十枚か二十枚あらかじめ仕入れておいて、そうしてわれわれのほかに近所じゅうの少年をかり集めてやるようになった。映画のほかに余興とあってまね事のような化学的の手品、すなわち無色の液体を交ぜると赤くなったり黄色くなったりするのを懇意な医者に準備してもらった。それはまずいいとしても、明治十年ごろに姉が東京の桜井学校《さくらいがっこう》で教わった英語の唱歌と称するものを合唱したりしたのは実に妙であった。その文句は今でも覚えているがその意味に至っては今にわからない。思い出しても冷や汗が流れる。しかしとにかくこんな西洋くさい遊戯が明治二十年代の土佐《とさ》の田舎《いなか》の子供の間に行なわれていたということは郷土文化史的にも多少の意味があるかもしれない。それよりも自分の生涯《しょうがい》の上にはこんな事件が思いのほかに大きな影響を及ぼしたのかもしれない。
その後おもちゃ屋で虫めがねのレンズを買って来て、正式の幻燈器械を作ろうとしたが失敗した。今考えてみると光学上の初歩の知識さえ皆無であり、それに使ったレンズがきわめて粗悪なものであるのみならず、焦点距離が長いのに、原画をあまり近く置きすぎたために鮮明な映像を得られなかったのは当然である。それでもこの失敗した試みが自分の理学的知識欲を刺激する効果のあっただけは確かである。南国の盛夏の真昼間の土蔵の二階の窓をしめ切って、満身の汗を浴びながら石油ランプに顔を近寄せて、一生懸命に朦朧《もうろう》たる映像を鮮明にかつ大きくすることに苦心した当時の心持ちはきのうのことのように記憶に新たである。青と赤のインキで塗った下手《へた》な鳥の絵のぼやけた映像を今でも思い出すことができる。その鳥はさかさまになって飛んでいたのである。
明治二十三年であったか、父が東京の博覧会見物に行ったみやげにほんとうの幻燈器械と数十の映画を買って帰ったので、長い間の希望はついに実現されたわけであるが、妙なことにこの遂げられた希望の満足に関する記憶の濃度のほうが、かの失敗した試みに伴のうた強烈なる法悦の記憶に比べてかえって希薄である。
その時の映画の種板はたいてい一枚一枚に長方形の桐製《きりせい》のわくがついていて、映画の種類は東京名所や日本三景などの彩色写真、それから歴史や物語からの抜萃《ばっすい》の類であった。そのほかに活動映画の先祖とも言われるべき道化人形の踊る絵があった。目をあいたり閉じたり、舌を出したり引っ込ませたりするような簡単な動作を単調に繰り返すだけである。また美しい五彩の花形模様のぐるぐる回りながら変化するものもあった。こんな幼稚なものでも当時の子供に与えた驚異の感じは、おそらくはラジオやトーキーが現代の少年に与えるものよりもあるいはむしろ数等大きかったであろう。一から見た十は十倍であるが、百から見た同じ十はわずかに十分の一だからである。今の子供はあまりに新しい驚異に対して麻痺《まひ》させられているような気がある。
活動写真を始めて見たのはたぶん明治三十年代であったかと思う。夏休みに帰省中、鏡川原《かがみがわら》の納涼場で、見すぼらしい蓆囲《むしろがこ》いの小屋掛けの中でであった。おりから驟雨《しゅうう》のあとで場内の片すみには川水がピタピタあふれ込んでいた。映画はあひる泥坊《どろぼう》を追っかけるといったようなたわいないものであったが、これも「見るまでは信じられなくて、見れば驚くと同時に、やがては当然になる」種類の経験であった。ともかくも、始めて幻燈を見たときほどには驚かなかったようである。
明治四十一年から三年までの滞欧中には、だれもと同様によく活動を見たものである。当時ベルリンではこれを俗にキーントップと言っていた。常設館はいくつもあったがみんな小さなものでわずかの観客しか容《い》れなかったように覚えている。邦楽座《ほうがくざ》や武蔵野館《むさしのかん》のようなものはどこにもなかったようである。各地に旅行中の夜のわびしさをまぎらせるにはやはりいちばん活動が軽便であった、ブリュッセルの停車場近くで見た外科手術の映画で脳貧血を起こしかけたこともあった。それは象のように膨大した片腕を根元から切り落とすのであった。
帰朝後ただ一度|浅草《あさくさ》で剣劇映画を見た。そうして始めていわゆる活弁なるものを聞いて非常に驚いて閉口してしまって以来それきりに活動映画と自分とはひとまず完全に縁が切れてしまった。今でも自分には活弁の存在理由がどうしても明らかでないのである。
自分が活動写真の存在を忘れているうちに、活動のほうでは、そういう自分の存在などは問題にしないで悠々《ゆうゆう》と日本全国を征服していた。長男が中学へ入学したときに父兄として呼び出されて行った。その時に控え室となっていた教場の机の上にナイフでたんねんに刻んだいろいろのらく書きを見ていたら、その中に稚拙な西洋婦人の立ち姿の周囲にリリアン・ギッシュ、メリー・ピクフォードなどという名前が彫り込んであった。自分の中学時代のいたずらを思い出すと同時に、ひどく時代におくれたものだという気がした。
荒物屋|駄菓子屋《だがしや》の店先に客引きの意味でかかっている写真の顔が新聞やビラの広告に頻繁《ひんぱん》に現われる。聞いてみるとそれがみんな活動俳優のいわゆるスターだそうである。幕末勇士などに扮《ふん》した男優の顔はいかなる蛮族の顔よりもグロテスクで陰惨なものであるが、それが特別に民衆に受けると見えてそれらの網目版が至るところの店先で自分をにらみつけ、脅かし圧迫した。
長い間縁の切れていた活動映画が再び自分の日常生活の上におりおり投射されるようになったのがつい近ごろのことである。飛行機から爆弾を投下する光景や繋留《けいりゅう》気球が燃え落ちる場面があるというので自分の目下の研究の参考までにと見に行ったのが「ウィング」であった。それから後、象の大群が見られるというので「チャング」を見、アフリカの大自然があるというので「ザンバ」を見た。そのうちにトーキーが始まるというので後学のために出かける。そうしているうちにいつのまにか一通りの新米《しんまい》ファンになりおおせたようである。
いちばんおもしろいものは実写ものである。こしらえたものにはやはりどこかに充実しない物足りなさがありごまかしきれない空虚がある。そういう意味でニュース映画は自分にとって最もおもしろいものの一つである。たとえばマクドナルドとかフーヴァーとかいう人間が現われて短い挨拶《あいさつ》をする。その短い場面でわれわれは彼らがいかにして、またいかに、英国労働内閣首相であり、北米合衆国大統領であるかを読み取ることができるような気がするのである。世界じゅうの重要不重要な出来事を短い時間に瞥見《べっけん》することによって世界が恐ろしく狭い空間に凝縮されて来る。そうして人類文化の進歩の急速な足音を聞いているような気もする。
「ザンバ」のごとき自然描写を主題にしたものでも、おそらく映画製作者の意識には上らなかったような些事《さじ》で、かえって最も強くわれわれの心を引くものが少なくない。たとえば獅子《しし》やジラフやゼブラそのものの生活姿態のおもしろいことはもちろんであるが、その周囲の環境ならびにその環境との関係が意外な新しい知識と興味を呼び起こす場合がはなはだ多い。たとえばライオンと風になびく草原との取り合わせなどがそうである。このいかにも水に渇したように風にそよぐ草によって始めてほんとうに生きたアフリカのライオンが眼前に現われる。ジラフの奇妙な足取りはそれ自身にもおもしろいが、その背景の珍しい矮樹林《わいじゅりん》によって始めてこの動物の全生命が見られる。驚いて川に飛び込む鰐《わに》は、その飛び込む前に安息している川岸の石原と茂みによって一段の腥気《せいき》を添える。これがないくらいならわれわれは動物園で満足してよいわけである。それだからわれわれはもう少し充分にこれらの背景と環境とを見せてもらいたいのであ
次へ
全3ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング