るが、通例のフィルムではこれが惜しいように節約されている。そのためにせっかくのありがたい体験がややもすれば概念化される恐れがある。
 フーヴァーの演説にしてもそうである。当人の顔だけ写ってしゃべるのよりも、たとえば仮り小屋の壇上に立っておおぜいの老幼男女に囲まれているほうがいかにもアメリカの大統領になっている。周囲のアメリカン・シチズンスの不用意な表情姿態の上に反映したフーヴァーのほうがはるかに多くフーヴァーその人を物語るのである。半分はフーヴァーを写し半分は聴衆のほうにカメラを向けたのを撮《と》ったほうが有効である。
 こういう現実味からいうと演劇フィルムは多くははなはだ空疎なものである。プロットにないよけいなものは塵《ちり》一筋も写さないというのが立て前であるらしい。これは劇の性質上当然のことかもしれないが、舞台で行なわるる演劇とフィルム劇とは必ずしも同じでない以上、フィルムにして始めて生ずる可能性を活用するためには、もう少し天然の偶然的なプロットを巧みに生かして取り入れて、それによって必然的な効果をあげたらよくはないか。
 有名な映画「ベルリーン」のごときはかなりにこの意味の天然を生かしてはいる。早暁の町のアスファルトの上を風に吹かれて行く新聞紙や、スプレー川の濁水に流れる渦紋《かもん》などはその一例である。これらの自然の風物には人間の言葉では説明しきれない、そうして映画によってのみ現わしうるある物があるのである。「銀嶺」のごときは元来実写を主題にしたものであろうが、軒のつららのものうい雫《しずく》に悠久《ゆうきゅう》の悲しみを物語らせ、なべの中に溶け行く雪塊に運命の不思議を歌わせ、氷河の上に映る飛行機の影に山の高さを示揚させたりするのも他の例である。しかし写実を目的としない劇的映画にも、もう少し自在に天然を取り入れることはできないか。おそらくこれはいくらでもできる可能性があるのであろう。なんの映画であったか忘れたが東洋物の場面の間に、毒蛇《どくじゃ》とマングースとの命がけの争闘を写したものをはさんだのがあった。それはあまりたいした成効とは思われなかったが、しかしともかくも人間のドラマのシーンの中間に天然のドラマの短いシーンをはさんで効果を添えるということは、従来よりももっともっと自由に使用してよいわけである。
 これに対する有益なヒントはたとえば俳諧《はいかい》連句《れんく》の研究によっても得られる。連句における天然と人事との複雑に入り乱れたシーンからシーンへの推移の間に、われわれはそれらのシーンの底に流れるある力強い運動を感じる。たとえば「猿蓑《さるみの》」の一巻をとって読んでみても

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鳶《とび》の羽も刷《かいつくろ》いぬはつしぐれ
 一ふき風の木の葉しずまる
股引《ももひき》の朝からぬるる川こえて
 たぬきをおどす篠張《しのはり》の弓
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のような各場面から始まって

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うき人を枳殻籬《きこくがき》よりくぐらせん
 今や別れの刀さし出す
せわしげに櫛《くし》で頭《かしら》をかきちらし
 おもい切ったる死にぐるい見よ
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の次に去来《きょらい》の傑作

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青天に有明月《ありあけづき》の朝ぼらけ
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が来る。ここに来ると自分はどういうものかきっと、ドストエフスキーの「イディオット」の死刑場へ引かれる途上の光景を思い出すのである。これらのシーンの推移のテンポは緩急自在で、実に目にも止まらぬような機微なものがある。試みにこの一巻を取ってこれを如実に表現すべき映画を作ることができたとしたら、かの「ベルリーン」のごときものは実に幼稚な子供の片言に過ぎないものになるであろう。
 しかし、話の筋が通らなくては物足りないという観客が多数にあるかもしれない。それならばかつて漱石《そうせき》虚子《きょし》によって試みられた「俳体詩」のようなものを作れば作れなくはない。
 ほんとうを言えば映画では筋は少しも重要なものでない。人々が見ているものは実は筋でなくしてシーンであり、あるいはむしろシーンからシーンへの推移の呼吸である。この事を多くの観客は自覚しないで、そうしてただつまらない話のつながりをたどることの興味に浸っているように思っているのではあるまいか。アメリカ喜劇のナンセンスが大衆に受ける一つの理由は、つまりここにあるのではないか、有名な小説や劇を仕組んだものが案外に失敗しがちな理由も一つはここにあるのではないかという気がする。
 連句には普通の言葉で言い現わせるような筋は通っていないが、音楽的にちゃんと筋道が通っており、三十六句は渾然《こんぜん》たる楽章を成している。そういう意味での筋の通った連句的な映画を見せてくれる人はないものかと思うのである。
 パラマウント・ニュースのようなものの組み合わせは場合によっては、偶然ではあるが、前述の連句的の効果を持ちうる。近ごろ朝日グラフで、街頭のスケッチを組み合わせたページが出るが、ああいうものを巧みに取り合わせて「連句」にすることもできる。
 器械の活動美を取り入れたフィルムもあるが、やはりこしらえものは実に空疎でおもしろくない。たとえば「メトロポリス」に現われる器械などは幼稚で愚鈍で、無意味というよりは不愉快である。これに反して平凡な工場のリアルな器械の映画には実物を見るとはまたちがった深い味がある。見なれた平凡な器械でも適当に映出されるとそれが別な存在として現われ、実物では見のがしている内容が目に飛び込んで来るのである。
 実物と同じに見せるということは絵画の目的でないと同様に映画の目的でもない。実物を見たのでは到底発見することのできないものを発見させるところに映画の特長があるのではないか。たとえばわれわれが自身でライオン狩りの現場に臨んだとしたら、どうして草原のそよぎなどを味わうことができるであろうか。殺されて行く獅子《しし》を哀れむ心を生じるだけの余裕があるであろうか。「なんの権利があって人間はこの自由な野の住民を殺戮《さつりく》するだろう」たとえばそんな疑いを起こすだけの離れた立場に身を置きうるであろうか。
 映画に下手《へた》な天然色を出そうとする試みなども愚かなことのように思われる。そうして芝居の複製に過ぎないようなトーキーもやはり失敗であるとしか思われない。言うまでもなく独立な芸術としての有声映画の目的は、やはり他にすでにあるものの複製ではなくて、むしろ現実にはないものを創造するのでなければなるまい。おりおり余興に見せられる発声漫画などはこの意味ではたしかに一つの芸術である。品《ひん》は悪いが一つの新しい世界を創造している。これに反して環《たまき》夫人の独唱のごときは、ただきわめて不愉快なる現実の暴露に過ぎない。
 絵画が写実から印象へ、印象から表現へ、また分離と構成へ進んだように映画も同じような道をすすむのではないか。そうして最後に生き残る本然の要素は結局自分の子供のころの田舎《いなか》の原始的な影法師に似たものになるのではないか。
 欧州のどこかの寄席《よせ》で或《あ》るイタリア人の手先で作り出す影法師を見たことがある。頭の上で両手を交差して、一点の弧光から発する光でスクリーンに影を映すだけのことであるが、それは実に驚くべき入神の技であった。小猿《こざる》が二匹向かい合って蚤《のみ》をとり合ったりけんかをしたりするのが、どうしても本物としか思われないのに、それはやはりただなんの仕掛けもない二つの手の影法師に過ぎないのである。そのほかに、たとえば、飲んだくれの亭主《ていしゅ》が夜おそく帰って来て戸をたたくと女房のクサンチペがバルコンから壺《つぼ》の中の怪しい液体をぶっかけ、結局つかみ合いになるという活劇をもわずかな小道具と背景を使って映し出して見せた。この同じ見せものにその後米国へ渡って、また偶然出くわした。これだけの特技があれば世界を胯《また》にかけて食って行けるのだと感心した。これを見ておもしろがる人々はただ妙技に感心するだけではなくて、やはり影絵のもつ特殊の魅惑に心酔するのである。
 これらの原始的の影法師と現在の有声映画には数世紀の隔たりがあるにかかわらず、現在の映画はこのただの影法師から学ぶべきものを多くもっているかもしれない。
 有声映画に取り入れられる音声も、単に話の筋道をはこぶための会話の使用にはたいてい先が見えている。やはり「音の影法師」のようなものに遠い未来があるであろう。
 このごろ見たうちで、アメリカの川船を舞台としたロマンスの場面中に、船の荷倉に折り重なって豚のように寝ているニグロの群れを映じてそれにものうげに悲しい鄙歌《ひなうた》を歌わせるのがあった。これを聞いているうちに自分はアメリカの黒奴史を通覧させられるような気がした。
 砂漠《さばく》でらくだがうずくまっていると飛行機の音が響いて来る、するとらくだが驚いて一声高くいなないて立ち上がる。これだけで芝居のうそが生かされて熱砂の海が眼前に広げられる。ホテルの一室で人が対話していると、窓越しに見える遠見の屋上でアラビア人のアルラーにささげる祈りの歌が聞こえる。すると平凡な一室が突然テヘランの町の一角に飛んで行く。こういう効果はおそらく音響によってのみ得られるべきものである。探偵《たんてい》が来て「可能的悪漢」と話していると、隣室から土人娘の子守歌《こもりうた》が聞こえる。それに探偵が聞き耳を立てるところに一編の山がある。こういう例はあげれば際限なくあげられるかもしれないが、しかし概して自動車の音、ピストルの響きの紋切り形があまりにうるさく幅をきかせ過ぎて物足りない。ほかにいくらでもいいものがあるのを使わないでいるような気がする。試みに自動車とピストルとジャズの一つも現われないトーキーを作ってみたいものである。
 俳句にはやはり実に巧みに「声の影法師」を取り入れた実例が多い。たとえば「鉄砲の遠音《とおね》に曇る卯月《うづき》かな」というのがある。同じ鉄砲でもアメリカトーキーのピストルの音とは少しわけがちがう。「里見えそめて午《うま》の貝吹く」というのがある。ジャズのラッパとは別の味がある。「灰汁桶《あくおけ》のしずくやみけりきりぎりす」などはイディルレの好点景であり、「物うりの尻声《しりごえ》高く名乗りすて」は喜劇中のモーメントである。少なくも本邦のトーキー脚色者には試みに芭蕉《ばしょう》蕪村《ぶそん》らの研究をすすめたいと思う。
 未来の映画のテクニックはどう進歩するか。次に来るものは立体映画であろうか。これも単に双眼《ステレオ》的効果によるものでなく、実際に立体的の映像を作ることも必ずしも不可能とは思われない。しかしそれができたとしたところでどれだけの手がらになるかは疑わしい。映画の進歩はやはり無色平面な有声映画の純化の方向にのみ存するのではないかと思われる。それには映画は舞台演劇の複製という不純分子を漸次に排除して影と声との交響楽か連句のようなものになって行くべきではないかと思われるのである。
 こんな話をしていたらある人がアヴァンガルドという一派の映画がいくらかそういう方向を示すものだと教えてくれたが、まだ実見することができない。
 ここまで書いて後にウーファ社の教育映画で海の浮遊生物を写したものを見た。顕微鏡で見る場合では、眼前の顕微鏡と、その鏡下のプレパラートとの相対的の大きさがちゃんと意識されているのであるが、それがスクリーンの上に大きく写されたのでは全くそのままの大きさの怪物としか思われない。その怪物の透明な肢体《したい》の各部がいろいろ複雑微妙な運動をしている。しかしわれわれ愚かな人間にはそれらの運動が何を意味するか、何を目的としているか全くわからない。わからないから見ていて恐ろしくなりすごくなる。哀れな人間の科学はただ茫然《ぼうぜん》として口をあいてこれをながめるほかはない。これが神秘でなくて何であろうか。この実在の怪物と、
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