たとえばウェルズの描いた火星の人間などを比較しても、人間の空想の可能範囲がいかに狭小貧弱なものであるかを見せつけられるような気がする。
 これを見た目で「素浪人忠弥《すろうにんちゅうや》」というのをのぞいて見た。それはただ雑然たる小刀細工や糊細工《のりざいく》の行列としか見えなかった。ダイアモンドを見たあとでガラスの破片を見るような気がした。しかし観客は盛んに拍手を送った。中途から退席して表へ出《い》で入り口を見ると「満員御礼」とはり札がしてあった。「唐人お吉」にしても同様であった。
 これらの邦劇映画を見て気のつくことは、第一に芝居の定型にとらわれ過ぎていることである、書き割りを背にして檜舞台《ひのきぶたい》を踏んでフートライトを前にして行なって始めて調和すべき演技を不了簡《ふりょうけん》にもそのままに白日のもと大地の上に持ち出すからである。それだから、していることが新米のファンの目には気違いとしか思われない。ちょん髷《まげ》をつけたわれらの祖父母|曾祖父母《そうそふぼ》とはどうしても思われない。第二には群衆の使い方が拙である。おおぜいの登場者の配置に遠近のパースペクチーヴがなく、粗
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