して自動車の音、ピストルの響きの紋切り形があまりにうるさく幅をきかせ過ぎて物足りない。ほかにいくらでもいいものがあるのを使わないでいるような気がする。試みに自動車とピストルとジャズの一つも現われないトーキーを作ってみたいものである。
俳句にはやはり実に巧みに「声の影法師」を取り入れた実例が多い。たとえば「鉄砲の遠音《とおね》に曇る卯月《うづき》かな」というのがある。同じ鉄砲でもアメリカトーキーのピストルの音とは少しわけがちがう。「里見えそめて午《うま》の貝吹く」というのがある。ジャズのラッパとは別の味がある。「灰汁桶《あくおけ》のしずくやみけりきりぎりす」などはイディルレの好点景であり、「物うりの尻声《しりごえ》高く名乗りすて」は喜劇中のモーメントである。少なくも本邦のトーキー脚色者には試みに芭蕉《ばしょう》蕪村《ぶそん》らの研究をすすめたいと思う。
未来の映画のテクニックはどう進歩するか。次に来るものは立体映画であろうか。これも単に双眼《ステレオ》的効果によるものでなく、実際に立体的の映像を作ることも必ずしも不可能とは思われない。しかしそれができたとしたところでどれだけの手がらになるかは疑わしい。映画の進歩はやはり無色平面な有声映画の純化の方向にのみ存するのではないかと思われる。それには映画は舞台演劇の複製という不純分子を漸次に排除して影と声との交響楽か連句のようなものになって行くべきではないかと思われるのである。
こんな話をしていたらある人がアヴァンガルドという一派の映画がいくらかそういう方向を示すものだと教えてくれたが、まだ実見することができない。
ここまで書いて後にウーファ社の教育映画で海の浮遊生物を写したものを見た。顕微鏡で見る場合では、眼前の顕微鏡と、その鏡下のプレパラートとの相対的の大きさがちゃんと意識されているのであるが、それがスクリーンの上に大きく写されたのでは全くそのままの大きさの怪物としか思われない。その怪物の透明な肢体《したい》の各部がいろいろ複雑微妙な運動をしている。しかしわれわれ愚かな人間にはそれらの運動が何を意味するか、何を目的としているか全くわからない。わからないから見ていて恐ろしくなりすごくなる。哀れな人間の科学はただ茫然《ぼうぜん》として口をあいてこれをながめるほかはない。これが神秘でなくて何であろうか。この実在の怪物と、
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