を出すとか、放免された囚人の歓喜を現わすのに春の雪解けの川面《かわも》を出すとか、よしやそれほどの技巧は用いないまでも、とにかく文学的の言葉をいわゆるフォトジェニックなフィルミッシな表現に翻訳しなければならない。
しかしそれだけではまだ映画の撮影台本にはなり得ない。一つ一つの画面断片の含むフィルムのコマ数、あるいはメートルであらわしたその長さ、あるいは秒で数えたその映写時間を決定しなければならない。そうしてそれらの断片が何個集まって一つの系列あるいはエピソードを成すかを決定してその全長を計算し、そういう系列の何個が全編を成すかを定めなければならない。
実際には、監督の人によっては、かなりにルースな方法による人はあるであろうが、原則としてはともかくも上記のごとき有機的に制定された道筋を通らなければ一編の有機的な映画はできるはずはないのである。いわゆる「カフスに書いた覚え書き」によって撮影を進行させ、出たとこ勝負のショットをたくさんに集積した上で、その中から截断《せつだん》したカッティングをモンタージュにかけて立派なものを作ることも可能であろうが、経済的の考慮から、そういう気楽な方法は
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