に類似したものであるということを指摘したことがある。その後エイゼンシュテインの所論を読んだときに共鳴の愉快を感ずると同時に、彼が連句について何事も触れていないのを遺憾に思った。おそらく彼はほんとうの連句については何事も知らないからであろう。

     映画と連句

 あらゆる芸術のうちでその動的な構成法において最も映画に接近するものは俳諧連句であろうと思われる。
 いわゆる発句はそれ自身の中にすでに若干の心像のモンタージュ的構成を備えているものである。しかしたとえば歌仙式《かせんしき》連句の中の付け句の一つ一つはそれぞれが一つのモンタージュビルドであり、その「細胞」である。もちろんその一つ一つはそれぞれ一つの絵である。しかし単にそれらの絵が並んでいるというだけでは連句の運動感は生じない。芭蕉《ばしょう》が「たとえば哥仙《かせん》は三十六歩なり、一歩もあとに帰る心なく、行くにしたがい、心の改まるはただ先へ行く心なればなり。」と言っている、その力学的な「歩み」は一句から次の句への移動の過程にのみ存する。
 その移動のモンタージュ的手法はすなわち付け句の付け方であっていわゆる、においとか響きとか位とかおもかげとかいう東洋的な暗示的な言葉で現わされているのであるが、これらは畢竟《ひっきょう》いずれも二つの連接句のおのおのに付属した二つの潜在的心像がいかなる形において連鎖を作るかというその様式の分類にほかならないのである。たとえば「くれ縁に銀|土器《かわらけ》を打ちくだき」に付けて「身ほそき太刀《たち》のそるかたを見よ」とする。この付け方を「打てば響くごとし」と評してあるが、試みに映画の一場面にこの二つのショットを継起せしめたと想像すれば、その観客に与える印象はおそらく打てば響くがごとくであるに相違ない。これをたとえば「爆発。ゆらぐ石門」「石のライオンが目をさまし吼《ほ》えておどり上がる」という連鎖と比べてどこに本質的の差違があるか。「思い切ったる死に狂い見よ」「青天に有明月《ありあけづき》の朝ぼらけ」と付けたモンタージュと、放免状を突きつけられた囚人の画像の次に「春の雪解け川」を出した付け合わせと、情は別でも、手法においてどれだけの差別があるか。
 映画でしばしば用いられる推移の手段としての接枝的連接法《コンチニュイティ・グラフト》とも呼ばれる常套的《じょうとうてき》手法
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