や水や森や山の模糊《もこ》たる雰囲気《ふんいき》が用いられる。ある場合には紙面の上下に二つの場面の終わりと始めとが雲煙を隔ててオーバーラップの形で現われることもあるであろう。今手近に適切な実例をあげることはできないが、おそらくこれらの絵巻物の中から「対照」「譬喩《ひゆ》」「平行」「同時」等いろいろのモンタージュ手法に類するものを拾い出すことも可能であろうと思われる。
 映画における字幕サブタイトルに相当するものすら、ある絵巻物には書き込まれてあるのも興味あることである。
 絵巻物の一画面は言わば静的である。その静的な一画面から次の画面への推移のリズムによって始めてそこに動的な効果を生じる。しかし映画の場合でもたとえばドブジェンコの「大地」などはほとんど静的な画面のモンタージュが多い。有名な「ポチョムキン」の市街砲撃の場面で、石のライオンが立ち上がって哮吼《こうこう》するのでも、実は三か所で撮《と》った三つの石のライオンの組み合わせに過ぎないということである。
 このように静的なものの律動的配合によってさえ非常に動的な陪音を生じうるのであるから、動的なものの結合からさらに高次元的に動的な効果が生まれうるのは当然である。たとえば「アジアの嵐《あらし》」の最後の巻に現われる、嵐の描写のごときがそれである。
 これに反して拙劣なるモンタージュは、動的な画像の単調無味なる堆積《たいせき》によってかえって観客のあくびを促すような静的なものを作り出すことも可能である。下手《へた》な剣劇の立ち回りがそれであろう。
 エイゼンシュテインは、日本の文化のあらゆる諸要素がモンタージュ的であると論じ、日本の文字でさえも(?)、口と犬とを合わせて吠《ほ》えるというようにできあがっていると言い、また歌舞伎《かぶき》についても分解的演技の原理という言葉を使って、役者の頭や四肢《しし》の別々な演技がモンタージュ的に結合されるというふうに解釈した。この方法を応用したのが近ごろ封切りされた「人生案内」のコリカの母の死の場合だと言われている。
 彼はまた短歌や俳諧《はいかい》を論じて「フレーセオロジーに置き換えられた象形文字」であると言い、二三の俳句の作例を引いてその構成がモンタージュ構成であると言っている。
 私はかつて「思想」や「渋柿《しぶがき》」誌上で俳諧連句の構成が映画のモンタージュ的構成と非常
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