き一つの森や沼の選択に時には多くの日子《にっす》と旅費を要するであろうし、一足の古靴《ふるぐつ》の選定にはじじむさい乞食《こじき》の群れを気長く物色することも必要になるであろう。
 このようにして選択された分析的要素の撮影ができた上で、さらに第二段の選択過程が行なわれる。それはこれらの要素を編集して一つの全体を作るいわゆるモンタージュの立場における選択過程である。
 だいたいのプロットに従って撮影されたたくさんのフィルムの巻物の中にはたくさんのむだなものが含まれている。とりそこね、とり直しがあり、あるいは撮影の際に得られたその場でのヒントによる余分の獲物もあるであろう。それで、使用されたフィルムの陰画《ネガチーヴ》の点検によって実際陽画に焼き付けられ映写さるべき部分を選び出すという大きな仕事がここから始まるのである。ティモシェンコのあげた例では千八百メートルの陽画映写フィルムを作るために六千メートルの陰画が消費されている。使ったもののやっと三割だけが役に立つ勘定である。これは非常なきびしい選択であると言わなければならない。しかしできあがった最後の作品の価値を決定するものは実にこの最後の選択の厳重さに係わるであろうと思われる。
 要するに映画は截断《カッティング》の芸術である。たとえばスターンバーグの「青い天使」の台本と、いよいよできあがった作品とを比べてみても、いかに多くのものが切り捨てられたかがわかる(わが国での検閲の切断は別として)。チャプリンがその「街《まち》の灯《ひ》」の一場面を撮《と》るためにいかに多くのフィルムをむだにしているかは、エゴン・エルウィン・ウィッシュの訪問記を一見しても想像されるであろう。
 このようにして行なわれる選択的|截断《せつだん》は言うまでもなく次に来るところの編集のための截断であり、構成のための加工である。一瓶《ひとかめ》の花を生けるために剪刀《せんとう》を使うのと全く同様な截断の芸術である。
 映画成立の最後の決定的過程として編集術については以下に項を改めて述べる事とする。

     映画の編集過程

 たくさんな陰画《ネガチーヴ》の堆積《たいせき》の中から有効なものを選び出してそれをいかにつなぎ合わせるかがいわゆるモンタージュの仕事である。
 モンタージュという言葉を抽出し、その意義を自覚的に強調したのはプドーフキン一派の人
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