いつでもどこでも許されるはずのものではない。
 以上述べて来ただけのことから考えても映画の制作には、かなり緻密《ちみつ》な解析的な頭脳と複雑な構成的才能とを要することは明白であろう。道楽のあげくに手を着けるような仕事では決してないのである。
「分析」から「総合」に移る前に行なわるる過程は「選択」の過程である。
 すべての芸術は結局選択の芸術であるとも言われる。芸術家の素材となりその表現の資料となるものはわれわれの日常の眼前にころがっている。その中から何を発見してつまみ上げるかが第一歩の問題であり、第二は表現法の選み方である。映画芸術家の場合でも全く同様であって、一つの映画の価値を決定するものは全く、フィルミッシな素材とそれのフィルミッシな表現法の選択であると言ってよい。「貧しさ」「うれしさ」の視覚的代表者をどこから拾って来るか、それをいかなる距離、いかなる角度、いかなる照明で、フィルムの何メートルに撮影し、それを全編のどの部分にどう入れるか、溶明溶暗によるかそれとも絞りを使うか、あるいは重写を用いるか。これらの選び方によって効果には雲泥《うんでい》の差が生じるのである。
 いかなる材料のいかなる撮影が効果的であるかを判断するためには映画家は「カメラの目」をもつことが必要である。プドーフキンは爆発の光景を現わすのに本物のダイナマイトの爆発を撮《と》ってみたがいっこうにすごみも何もないので、試みにひどく黒煙を出す炬火《たいまつ》やら、マグネシウムの閃光《せんこう》やを取り交ぜ、おまけに爆発とはなんの縁もない、有り合わせの河流の映像を插入《そうにゅう》してみたら、意外にすばらしい効果を生じて、本物の爆発よりははるかに爆発らしい爆発ができたそうである。また、エイゼンシュテインは港の埠頭《ふとう》における虐殺の残酷さを見せるために、階段をころがり落ちる乳母車《うばぐるま》を写した。
「彫刻家が大理石とブロンズで考えるように、映画家はカメラとフィルムで考えそうして選択することが第一義である。」
 役者の選択についても同様である。舞台の名優は必ずしもフィルムの名優ではない。ロシア映画ではただのどん百姓が一流の名優として現われる。アメリカふうのスター映画でさえも、画面に時々しか顔を出さないエキストラのタイプの選択いかんによって画面の効果は高調されあるいは減殺される。
 背景となるべ
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