のである。薄暮の縁側の端居《はしい》に、たまたま眼前を過ぎる一匹の蚊が、大空を快翔《かいしょう》する大鵬《たいほう》と誤認されると同様な錯覚がはたらくのである。
いっそうおもしろいのは時間の逆行による世界像の反転である。いわゆるカットバックの技巧で過去のシーンを現在に引きもどすことが随意にできるのもおもしろくないことはないが、これは言わば「フィルムの記憶」の利用であって、人間の脳の記憶の代用に過ぎない。しかし真に不思議なのはフィルムの逆行による時の流れの逆流である。たとえば燃え尽くした残骸《ざんがい》の白い灰から火が燃え出る、そうしてその火炎がだんだんに白紙や布切れに変わって行ったりする。あるいはまた、粉々にくずれた煉瓦《れんが》の堆積《たいせき》からむくむくと立派な建築が建ち上がったりする。
昔ある学者は、光の速度よりもはやい速度で地球から駆け出せば宇宙の歴史を逆《さか》さまにして見られるというような寝言を言った。しかしこのような超光速度はできない相談であるし、それができたとしてもやはり歴史の逆さまは見られそうもない。しかし映画の時間は確かにある意味では立派に逆転し、従って歴史は
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