って日常ある点までは映画におけると同様な尺度の変更を体験しているのであるが、時間についてはこれに相応する経験を全然もっていないと言ってもよい。それで、もしもわれわれの身辺の現象の時間尺度がわれわれの「生理的時間《フィジオロジカルタイム》」の尺度に対して少しでもちがったら、実にたいへんなことになるのである。たとえば音楽にしても聞き慣れたラルゴの曲をプレストで演奏したらもはや何人《なんびと》もそれが何であるかを再認することはできないであろう。またもし蓄音機の盤を正常な速度の二倍あるいは半分の速度で回転させれば単に曲のテンポが変わるのみならず、音程は一オクテーヴだけ高くあるいは低くなってしまうのである。東京市民を驚かせるような強震が二日に一度三日に一度ずつ襲って来るとしたらどうであろうか、市内の家屋構造は一変してしまい、地震研究所の官制は廃止になるであろう。
映画の世界では実際に、ある度までは、この時間の尺度が自由に変更されうるのは周知のことである。一粒の草花の種子が発芽してから満開するまでの変化を数分の間に完了させることもできる一方では、また、弾丸が銃口を出て行く瞬間にこれに随伴する煙の
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