映画の世界像
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)世界像《ウェルトビルド》を構成する

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)日月|星辰《せいしん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ](昭和七年二月、思想)
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 映画のスクリーンの平面の上に写し出される光と影の世界は現実のわれらの世界とは非常にかけはなれた特異なものであって両者の間の肖似はむしろきわめてわずかなものである。それにもかかわらずわれわれは習慣によって養われた驚くべき想像力の活動によって、このわずかな肖似の点を土台にして、かなりまで実在の世界に近い映画の世界を築き上げる。そうして、いつのまにか映画と実際との二つの世界の間を遠く隔てる本質的な差違を忘れてしまっているのである。あらゆる映画の驚異はここに根ざしこの虚につけ込むものである。従って未来の映画のあらゆる可能性もまたこの根本的な差違の分析によって検討されるであろうと思う。
 それにはまず物理的力学的な世界像《ウェルトビルド》を構成する要素が映画の上にいかなる形で代表されているかを考えてみるのが一つの仕事である。
 映画の観客は必ずしも学問としての物理学を学んではいない。しかしすべての人間は、皆無意識に物理的力学的に世界像を把握《はあく》する事を知っている。すなわちまず三次元の空間の幾何学に一次元の時間を加えた運動学的《カイネマチカル》の世界を構成し、さらにこれに質量あるいは力の観念を付加した力学的《ダイナミカル》の世界像を構成し、そうして日常の生活をこれによって規定していることは事実である。もしも、これがなかったら、われわれは食膳《しょくぜん》に向かって箸《はし》を取り上げることもできないであろうし、門の敷居をまたぐこともできないであろう。
 空間の概略な計測には必ずしもメートル尺はいらない。人間の身体各部が最初の格好な物さしである。手の届かぬ距離の計測には両眼の距離が基線となって無意識の間に巧妙な測量術が行なわれる。時間の測定には必ずしも時計はいらない。短い時間には脈搏《みゃくはく》が尺度になり、もう少し長い時間の経過は腹の減り方や眠けの催しが知らせる。地下の坑道にいて日月|星辰《せいしん》は見えなくてもこれでいくぶんの見当はわかるであろう。質量と力の計測にも必ずしも秤《はかり》はいらない。われわれの筋肉の緊張感覚がそれに役立つ。
 これらの原始的なしかし驚嘆すべき計量単位の巧妙な系統によって、われわれの祖先は遠い昔から立派な力学的世界像を構成していた。近ごろになってわれわれはそれを少しばかり整理しみがき上げて、そうしていかめしい学という名をつけたのである。
 さて、これらの原始的な世界像構成要素が映画ではどういうふうに置き換えられて代表されているかを考えてみる。
 まず「質量」はどうなっているか。映像にはもちろん普通の意味での質量は欠けている。影と幽霊には目方はないのである。しかし映画の観客は各自の想像によってそれぞれの映像に相応する質量を付加し割り当てながら見て行く。それで、もしも映画のトリックによって一人の男が三井寺《みいでら》の鐘を引きちぎって軽々と片手でさし上げれば、その男は異常な怪力をもっているように見えるのである。また、大きな岩と見えるものが墜落して来て、その下敷きになって一人の人間が隠れればその人はほんとうに圧死したものと考えられるのである。それは影に質量がなく従って運動量《モーメンタム》のないことを忘れているからである。
 次に「空間」はどうなっているか。これは、言うまでもなく、三次の空間が二次の平面に投影されている。三次元の実体は二つ同時に同一空間を占める事はできないが、平面は何枚重ねても平面であるから、映画の写像はいくつでも重ね写しができる。オーヴァーラップの技巧はこの点を利用したものに過ぎない。しかも、これによって、生きている人をそのままに透明な幽霊にして壁へでもなんでもぺたぺたと張り付けあるいは自由に通り抜けさせることができるのである。
 映画における空間の特異性はこの二次元性だけではない。これに劣らず重要なことは、その空間の尺度がある度までは自由に変えられることである。広大な戦場や都市を空中写真によって圧縮してスクリーンのわく内に収めることもできれば、スターの片方の目だけを同じスクリーンいっぱいに写し出すこともできる。従って、この特徴と重写の技巧とを併用すれば、一粒の芥子種《けしだね》の中に須弥山《しゅみせん》を収めることなどは造作もないことである。巨人の掌上でもだえる佳姫《かき》や、徳利から出て来る仙人《せんにん》の映画などはかくして得られるのである。このようにカメラの距離の調節に
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