よって尺度の調節ができるのみならず、また、カメラの角度によって異常なパースペクティーヴを表現し、それによって平凡な世界を不思議な形態にゆがめることもできるのは周知の事実である。
 しかしこういう程度の尺度やパースペクティーヴの変更はむしろ平凡なことであって、ある度まではわれわれの目の網膜のスクリーンの上で行なわれている技巧の延長のようなものであり、従ってわれわれに新しく教うるところは僅少《きんしょう》であるが、真に驚異の念を喚起して夢にも想像のできない未知の世界を展開させるものは顕微鏡的映画である。たとえば水晶で作られたようなプランクトンがスクリーンいっぱいに活動しているのを見る時には、われわれの月並みの宇宙観は急に戸惑いをし始め、独断的な身勝手イデオロギーの土台石がぐらつき始めるような気がするであろう。不幸にしてこういう映画の、ことに、日本で見られるものの数があまりに少ないのは残念である。
「時間」に関する映画の世界の特異性はさらに顕著なものである。そうして映画の驚異の多分な可能性がこれに連関していることは疑いもないことである。
 空間についてはわれわれはパースペクティーヴの原理によって日常ある点までは映画におけると同様な尺度の変更を体験しているのであるが、時間についてはこれに相応する経験を全然もっていないと言ってもよい。それで、もしもわれわれの身辺の現象の時間尺度がわれわれの「生理的時間《フィジオロジカルタイム》」の尺度に対して少しでもちがったら、実にたいへんなことになるのである。たとえば音楽にしても聞き慣れたラルゴの曲をプレストで演奏したらもはや何人《なんびと》もそれが何であるかを再認することはできないであろう。またもし蓄音機の盤を正常な速度の二倍あるいは半分の速度で回転させれば単に曲のテンポが変わるのみならず、音程は一オクテーヴだけ高くあるいは低くなってしまうのである。東京市民を驚かせるような強震が二日に一度三日に一度ずつ襲って来るとしたらどうであろうか、市内の家屋構造は一変してしまい、地震研究所の官制は廃止になるであろう。
 映画の世界では実際に、ある度までは、この時間の尺度が自由に変更されうるのは周知のことである。一粒の草花の種子が発芽してから満開するまでの変化を数分の間に完了させることもできる一方では、また、弾丸が銃口を出て行く瞬間にこれに随伴する煙の渦環《うずわ》や音波の影の推移をゆるゆると見物することもできる。眠っているように思っている植物が怪獣のごとくあばれ回ったり、世界的|拳闘選手《けんとうせんしゅ》が芋虫のように蠢動《しゅんどう》するのを見ることもできるのである。
 時間の尺度の変更は、同時に、時間を含むあらゆる量の変更を招致することはもちろんである。まず第一に速度であるがこれは時間に逆比例する。運動量《モーメンタム》も同様である。しかし加速度となると時間の自乗に逆比例するから時間のほうが二倍に延びれば加速度は四分の一になる。それで、たとえば煙突の崩壊する光景の映画を半分の速度で映写すると、それは地球の四分の一の質量を有する遊星の上での出来事であるかのように見えるのである。同様なわけで器械の工率のディメンションは時間のマイナス三乗を含むから、映写機のハンドルを二倍の速さで回せば、一馬力の器械が八馬力を出して見えるのである。もっともこれは映像の質量と距離とをほぼ正当に評価し想定するためにそうなるのであって、もしも前述の崩壊する煙突が、実物でなくて小さな雛形《ひながた》であると信ずることができるとすれば現象は不自然さを失ってしまうはずである。起重機のつり上げている鉄塊が実は張り抜きだと信ずることができれば、やはり不思議な感じはなくなるであろう。しかし実際には普通だれもそうは信ずることができなくて、これらを立派な驚異として感ずるのは、畢竟《ひっきょう》見なれたものの映像にそれぞれの質量や大きさを適当に評価して付加するというわれわれの無意識な能力がいかに根強く活動しているかを示すのである。この事実はすでにある度までは従来の映画にも利用されてはいるが、まだまだたくさんな将来の可能性がこの事実の基礎の上に存在するであろう。
 同じ理由から、われわれの見慣れない、従ってその大きさも質量も見当のつかないような物の運動を示す映画では全く速度加速度の見当がつかない。たとえば透明な浮遊生物の映画などでも、考えよう一つであの生物のあるものが人間ほどの大きさをもったダンサーの化け物のように思われて来る。そうするとその運動は非常に軽快に見え、そうして今にもわれわれに食ってかかりそうな無気味さを感じる。しかし顕微鏡下の微粒子をのぞいているつもりで見ていると感じはまるでちがったものになる。すべてが細かい蠢動《しゅんどう》になってしまう
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