気もする。有名な河童橋《かつぱばし》は河風が寒く、穂高の山塊はすつかり雨雲に隠されて姿を見せない。この橋の両側だけに人間の香ひがするが、そこから六百山の麓に沿うて二十余町の道の両側にはさま/″\な喬木が林立してゐる、それが南国生れの自分にはみんな眼新しいものばかりのやうな気がする。樹名を書いた札のついてゐるのは有難いが中々一度見た位では覚えられさうもない。
池の方へ路の分れる処に茶店がある。そこで茶をのんで餅をつまんでゐたら、同宿の若い夫婦連れがあとからはいつて来た。腰を下ろしたと思ふと御主人が「や、しまつた、財布を忘れた」と云つて懐を撫でまはしてゐる。失礼ではあつたが自分達の盆の餅をすゝめて、さうして此人達から新築のホテルに関する噂を聞いた。この若く美しい夫人がスクリーンで見る某映画女優と区別の出来ない程に実によく似てゐた。
橋を渡る頃は又雨になつて河風に傘を取られさうであつた。大きな丸太を針金で縛り合せた仮橋が生ま/\しく新しいのを見ると、前の橋が出水に流されてそのあとへ新造したばかりであらうかと思はれた。雨と一緒に横しぶきに吹きつける河霧がふるへ上がるやうに寒かつた。
河向
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