ペクトルが高さ約千米の岩壁の下から上に残らず連続的に展開されてゐるのである。
眼下の梓川の眺めも独自なものである。白つぽい砂礫を洗ふ浅緑色も一種特別なものであるが、何よりも河の中洲に生えた化粧柳の特異な相貌はこれだけでも一度は来て見る甲斐があると思はれた。この柳は北海道にはあるが内地では此処だけに限られた特産種で春の若芽が真赤な色をして美しいさうである。
夕飯の膳には名物の岩魚や珍らしい蕈が運ばれて来た。宿の裏の瀦水池で飼つてある鰻の蒲焼も出た。此処でしばらく飼ふと脂気が抜けてしまふさうで、そのさつぱりした味がこの土地に相応はしいやうな気もした。
宿の主人は禿頭の工合から頬髯まで高橋是清翁によく似てゐる。食後の話しに来て色々面白いことを聞かされた。残雪がまだ消えやらず化粧柳の若芽が真紅に萌え立つ頃には宿の庭先に兎が子供を連れて遊びに来たり、山鳥が餌をあさり歩くことも珍らしくないさうである。
夜中雨が降つて翌朝は少し小降りにはなつたが何時止むとも見えない。宿の番傘を借りて明神池見物に出掛けた。道端の熊笹が雨に濡れてゐるのが目に沁みるほど美しい。何処かの大きな庭園を歩いてゐるやうな
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