雨の上高地
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)帷帳《とばり》を

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「金+肅」、第3水準1−93−39]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いよ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 山好きの友人から上高地行を勧められる度に、自動車が通じるやうになつたら行くつもりだと云つて遁げてゐた。その言質をいよ/\受け出さなければならない時節が到来した。昭和九年九月廿九日の早朝新宿駅中央線プラットフォームへ行つて汽車を待つてゐると、湿つぽい朝風が薄い霧を含んでうそ寒く、行先の天気が気遣はれたが、塩尻まで来るととうとう小雨になつた。松本から島々までの電車でも時々降るかと思ふと又霽れたりしてゐた。行手の連峯は雨雲の底面で悉くその頂を切り取られて、山々はたゞ一面に藍灰色の帷帳《とばり》を垂れたやうに見えてゐる。その幕の一部を左右に引きしぼつたやうに梓川の谿谷が口を開いてゐる。それが、未だ見ぬ遠い彼方の別世界へこれから分けのぼる途中の嶮しさを想はせるのであつた。
 島々からのバスの道路が次第々々に梓川の水面から高く離れて行く。或地点では車の窓から見下ろされる断崖の高さが六百尺だと云つて女車掌が紹介する。それが六百尺であることが恰もその事掌のせゐでもあるかのやうに何となく、得意気に聞こえて面白い。
 近在の人らしい両親に連れられた十歳位の水兵服の女の子が車に酔うて何度ももどしたりして苦しさうであるが、苦しいとも云はずに大人しく我慢してゐるのが可愛想であつた。白骨《しらほね》温泉へ行くのださうで沢渡《さはんど》で下りた。子供も助かつたであらうが自分もほつとした。もどしたものを母親が小さな玩具のバケツへ始末してゐた。そのバケツの色彩が妙に眼について今でも想出される。
 途中で乗客が減つたのでバスから普通の幌自動車に移された。その辺から又道路が川の水面に近くなる。河の水面のプロフィルが河長に沿うて指数曲線か雙[#「雙」は底本では「隻」]曲線のやうな恰好をしてゐる。その脇に沿うて略同じ勾配の道路をつけるから、自然に途中で道と河の高度差の最大な処が出来るのであらうかと思はれた。
 水力発電所が何箇所かある。その中には日本一の落差で有名だといふのがある。大正池からそこまで二里に近い道程を山腹に沿うて地中の闇に隧道を掘り、その中を導いて緩かに流して来た水を急転下させてタービンを動かすのである。この工事を県当局で認可する交換条件として上高地迄の自動車道路の完成を会社に課したといふ噂話を同乗の客一人から聞かされた。かうした工事が天然の風致を破壊すると云つて慨嘆する人もあるやうであるが自分などは必ずしもさうとばかりは思はない。深山幽谷の中に置かれた発電所は、吾々の眼には矢張その環境にぴつたりはまつてザハリッヒな美しさを見せてゐる。例へば悪趣味で人を呼ぶ都会の料理屋の造り庭の全く無意味なこけおどしの石燈籠などよりも、寸分無駄のない合理的な発電所や変圧所の方がどの位美しく気持がよいか比較にならないやうに思はれるのである。
 進むに従つて両岸の景色が何となく荒涼に峻険になつて来るのが感ぜられた。崖の崩れた生ま生ましい痕が現はになり渓流の中にも危岩が聳え立つて奔流を苛立たせてゐる処もある。
 大きな崖崩れで道路のこはれたあとがもう荒まし修繕が出来てゐた。そこへ内務省と大きく白ペンキでマークしたトラックが一台道を塞いで止まつてその上に一杯に積んだ岩魂を三四人の人夫が下ろしてゐた。それがすむまで吾々の車は待たなければならないので車から下りて煙草を吸ひつけながらその辺に転がつてゐる岩塊を検査した。安山岩かと思はれる火山岩塊の表面が赤※[#「金+肅」、第3水準1−93−39]色に風化したのが多い。いつかの昔焼岳の噴火の産物が此処まで流転して来たものと思はれた。一時止んでゐた小雨が又思出したやうにこぼれて来て口にくはへた巻煙草を濡らした。
 最後の隧道を抜けていよ/\上高地の関門をくゞつたとき一番に自分の眼に映じた美しい見ものは、昔から写真でお馴染の大正池の眺めではなくて、丁度その時雲の霽間にその全貌を現はした焼岳の姿と色彩とであつた。
 大正年間の大噴火に押出した泥流を被らなかつたと思はれる部分の山腹は一面にレモン黄色と温かい黒土色との複雑なニュアンスをもつて彩どられた草原に白く曝らされた枯木の幹が疎に点在してゐる。さうして所々に露出した山骨は青みがかつた真珠のやうな明るい銀灰色の条痕を成して、それがこの山の立体的な輪郭を鋭く大胆なタッチで描出してゐ
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