るのである。今までに随分色々な山も見て来たが、此日此時に見た焼岳のやうな美しく珍らしい色彩をもつた山を見るのは全く初めてであるといふ気がした。
 音に聞く大正池の眺めは思の外に殺風景に思はれた。併し池畔からホテルへのドライヴウェーは、亭々たる喬木の林を切開いて近頃出来上つたばかりださうであるが、樹々も路面もしつとり雨を含んで見るからに冷涼の気が肌に迫る。道路の真中に大きな樹のあるのを切残してあるのも愉快である。
 瑞西あたりの山のホテルを想はせるやうな帝国ホテルは外側から観賞しただけで梓川の小橋を渡り対岸の温泉ホテルといふ宿屋に泊つた。新築別館の二階の一室に落ちついた頃は小雨が一時止んで空が少し明るくなつた。
 窓際の籐椅子に腰かけて、正面に聳える六百山と霞沢山とが曇天の夕空の光に照されて映し出した色彩の盛観に見惚れてゐた。山頂近く、紺青と紫とに染められた岩の割目を綴る僅の紅葉はもう真紅に色づいてゐるが、少し下がつた水準では未だ漸く色づき初めた程であり、ずつと下の方は唯深浅さまざまの緑に染分けられ、ほんの処々に何かの黄葉を点綴してゐるだけである。夏から秋へかけての植物界の天然の色彩のスペクトルが高さ約千米の岩壁の下から上に残らず連続的に展開されてゐるのである。
 眼下の梓川の眺めも独自なものである。白つぽい砂礫を洗ふ浅緑色も一種特別なものであるが、何よりも河の中洲に生えた化粧柳の特異な相貌はこれだけでも一度は来て見る甲斐があると思はれた。この柳は北海道にはあるが内地では此処だけに限られた特産種で春の若芽が真赤な色をして美しいさうである。
 夕飯の膳には名物の岩魚や珍らしい蕈が運ばれて来た。宿の裏の瀦水池で飼つてある鰻の蒲焼も出た。此処でしばらく飼ふと脂気が抜けてしまふさうで、そのさつぱりした味がこの土地に相応はしいやうな気もした。
 宿の主人は禿頭の工合から頬髯まで高橋是清翁によく似てゐる。食後の話しに来て色々面白いことを聞かされた。残雪がまだ消えやらず化粧柳の若芽が真紅に萌え立つ頃には宿の庭先に兎が子供を連れて遊びに来たり、山鳥が餌をあさり歩くことも珍らしくないさうである。
 夜中雨が降つて翌朝は少し小降りにはなつたが何時止むとも見えない。宿の番傘を借りて明神池見物に出掛けた。道端の熊笹が雨に濡れてゐるのが目に沁みるほど美しい。何処かの大きな庭園を歩いてゐるやうな気もする。有名な河童橋《かつぱばし》は河風が寒く、穂高の山塊はすつかり雨雲に隠されて姿を見せない。この橋の両側だけに人間の香ひがするが、そこから六百山の麓に沿うて二十余町の道の両側にはさま/″\な喬木が林立してゐる、それが南国生れの自分にはみんな眼新しいものばかりのやうな気がする。樹名を書いた札のついてゐるのは有難いが中々一度見た位では覚えられさうもない。
 池の方へ路の分れる処に茶店がある。そこで茶をのんで餅をつまんでゐたら、同宿の若い夫婦連れがあとからはいつて来た。腰を下ろしたと思ふと御主人が「や、しまつた、財布を忘れた」と云つて懐を撫でまはしてゐる。失礼ではあつたが自分達の盆の餅をすゝめて、さうして此人達から新築のホテルに関する噂を聞いた。この若く美しい夫人がスクリーンで見る某映画女優と区別の出来ない程に実によく似てゐた。
 橋を渡る頃は又雨になつて河風に傘を取られさうであつた。大きな丸太を針金で縛り合せた仮橋が生ま/\しく新しいのを見ると、前の橋が出水に流されてそのあとへ新造したばかりであらうかと思はれた。雨と一緒に横しぶきに吹きつける河霧がふるへ上がるやうに寒かつた。
 河向ひから池までの熊笹を切開いた路はぐしよ/\に水浸しになつて歩きにくかつた。学校の先生らしい一行があとから自分等を追越して行つた。
 明神池は自分には別に珍らしい印象を与へなかつた。何となく人工的な感じのする点がこの池を有名にしてゐるかと思はれた。併し、紅葉の季節に見直すといゝかも知れない。同じ道を引返して帝国ホテルで昼飯を食つてから、今度は田代池といふのを見に行つた。赤※[#「金+肅」、第3水準1−93−39]の浮いた水には妙に無気味な感覚があつて、何処かの草むらから錦の色をした蛇でも這出しさうな気がした。かうしたじめ/\した池沼のほとりの雰囲気はいつも自分の頭の何処かに幼ない頃から巣くつてゐる色々な御伽噺中の妖精を思出すやうである。
 大正池の畔に出て草臥れを休めてゐると池の中から絶えずガラ/\/\何かの機械の歯車の轢音らしいものが聞こえて来る。見ると池の真中に土手のやうなものが突出してゐて、その端の小屋のやうなものの中で何かしら機械が運転してゐるらしい。宿へ帰つて聞いて見ると、県から水電会社への課税のやうな意味で大正池の泥浚へをやらせてゐるのだといふ。ほんの申訳にやつてゐるのだとい
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