《かがや》かしていたことであった。しかしその時刻にはもうあの恐ろしい前代未聞《ぜんだいみもん》の火事の渦巻が下町一帯に拡がりつつあった。そうして生きながら焼かれる人々の叫喚《きょうかん》の声が念仏や題目の声に和してこの世の地獄を現わしつつある間に、山の手では烏瓜の花が薄暮の垣根に咲き揃っていつもの蛾の群はいつものように忙《せ》わしく蜜をせせっているのであった。
 地震があれば壊れるような家を建てて住まっていれば地震の時に毀《こわ》れるのは当り前である。しかもその家が、火事を起し蔓延させるに最適当な燃料で出来ていて、その中に火種を用意してあるのだから、これは初めから地震に因る火災の製造器械を据付けて待っているようなものである。大火が起れば旋風《つむじかぜ》を誘致して焔の海となるべきはずの広場に集まっていれば焼け死ぬのも当然であった。これは事のあった後に思うことであるが、吾々には明日の可能性は勿論、必然性さえも問題にならない。
 動物や植物には百千年の未来の可能性に備える準備が出来ていたのであるが、途中から人間という不都合な物が飛び出して来たために時々違算を生じる。人間が燈火を発明したため
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