宇都野さんの歌
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)対《む》き合って
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(例)[#地から1字上げ](大正十二年三月『朝の光』)
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ある一人の歌人の歌を、つづけて二、三十も読んでいると、自然にその作者の顔が浮んで来る。しかし作者によってその顔が非常にはっきり出て来るのと、そうでないのとがある。云わば作者の影の濃いと薄いとがある。
作者の本当の顔を知っている場合には、歌によって呼び出される作者の心像の顔は無論ちゃんと始めから与えられたものである。それにもかかわらず、作者によってはその心像の顔が非常に近く明瞭に浮ぶのと、なんだか遠い処にぼんやり霞を隔てて見るように思われるのとあるように思う。場合によってその作者の顔が出て来ないで、百人一首の中の画像が出て来たり西洋の詩人の顔が出て来たりする事もある。どうかすると一人の作者の顔が男になったり女になったりする事さえある。
宇都野さんの歌によって私の頭に呼び出される宇都野さんの顔の輪郭は非常にはっきりしている。そうして私の眼前五尺とは離れぬ処に見えているような気がする。そうしてそれが紛れもない私の知っている宇都野さんの顔である。それで私はこの人の歌を読んでいる時には、作者と対《む》き合ってその声を聞いている時と全く同じ心持になる。
影の濃いというのは、ヴァイタリティの強いという事を意味するとすると、宇都野さんの歌には強いヴァイタリティが表現されているものと思われる。そしてそれは余所《よそ》から借りて来たものでなくて、やはり作者自身から自然に歌の中に流れ込んだもののように見える。
歌人に病人が多いのかあるいは病人に歌をよむ人が多いのかどうか、事実は分らないが、私のこれまで読んだ色々の歌人の歌によって想像される作者の健康は平均すると中以下になりそうな気がする。しかし宇都野さんの歌から見た作者は、どうしても健康な身体と神経をもっている人としか思われない。そう思わせるあるものがこの作者の歌の何処かにある。
歌から見た宇都野さんはどう見ても世を捨てた歌よみ専門の歌人でなくて、この実社会に立ち働いて戦っている人のように見える。そして負けじ魂と強い腕の力で波風をしのいでいる人のように見える。強い人にも嘆き悲しみ悶えはある。しかしそれは
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