弱いもののそれとは何処かちがった響がある。
宇都野さんの歌の音調にはやはり自ずからな特徴がある。それは如何なる点に存するか明白に自覚し得ないが、やはり子音母音の反復律動に一種の独自の方式があるためと思われる。ともかくもその効果はこの作者の歌に特殊の重味をつける。どうかするとあまりに重く堅過ぎるように私には思われる事もあるが、考えてみると、それを取り去ってはやはり作者の影が稀薄になるかと思う。
宇都野さんの歌はどう見ても大宮人の歌ではない、何処かしら東夷《あずまえびす》とでも云いたいような処があると私は思う。その点を私は面白いと思う。そしてそういう処をもっと出してもらいたいような気がする。
すべての歌人の取材の範囲やそれに対する観照の態度は、誰でも年を追って自然の変遷を経るもののように見える。しかしそういうものがどんなに変っても、同じ作者の「顔」は存外変らぬもののように思われる。歌を専門的に研究している人達の分析的な細かい批評眼で見た時にはかなりに著しい変化と思われるような場合でもそういう細かい処を見ないでただ「顔」だけ見ている門外漢には、やはり同じ顔しか見えないものではないかと思われる。従って私はもしも歌人が自分の顔を気にしてそれを色々に変えようとするような事があるとすれば、それは大して努力するだけの意義のある事ではないように思う。
それで私はすべての歌人に望むように宇都野さんの場合にも、どうかあまりに頭のいい自己批評から作歌の上に拘束を加えて、鮮明な自然の顔の輪郭が多少でも崩されるような事のないように祈りたいと思う。
もう一つ特に私が宇都野さんに望む所は、時々はもう少し不用意な、読みっ放しの云わばもっとそつのある歌をよんで見せて頂きたいと思う事である。これは無理かも知れないが、ただ私だけの希望である。
最後に私は宇都野さんの歌集が近き将来に世に現われる事を希望する。その歌集はおそらく今の歌壇に一つの異彩を放つばかりでなく、現代世相の一面の活きた記録としても意義のあるものになるだろうと思っている。[#地から1字上げ](大正十二年三月『朝の光』)
底本:「寺田寅彦全集 第十二巻」岩波書店
1997(平成9)年11月21日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
1985(昭和60)年
初出:「朝の光」
1923(大正12)
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