怪異考
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)語彙《ごい》を

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)郷里|高知《こうち》付近

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 物理学の学徒としての自分は、日常普通に身辺に起こる自然現象に不思議を感ずる事は多いが、古来のいわゆる「怪異」なるものの存在を信ずることはできない。しかし昔からわれわれの祖先が多くの「怪異」に遭遇しそれを「目撃」して来たという人事的現象としての「事実」を否定するものではない。われわれの役目はただそれらの怪異現象の記録を現代科学上の語彙《ごい》を借りて翻訳するだけの事でなければならない。この仕事はしかしはなはだ困難なものである。錯覚や誇張さらに転訛《てんか》のレンズによってはなはだしくゆがめられた影像からその本体を言い当てなければならない。それを的確に成効しうるためにはそのレンズに関する方則を正確に知らなければならない、のみならず、またその個々の場合における決定条件として多様の因子を逐一に明らかにしなければならない。この前者の方則については心理学のほうから若干の根拠は供給されるとしても、後者に関する資料はほとんどすべての場合において永久に失われている。従ってほんとうに科学的な推定を下すということはほとんど望み難いことである。ただできうる唯一の方法としては、有るだけの材料から、科学的に合理的な一つの「可能性」を指摘するに過ぎない。もっともこの可能性が非常に多様であれば、その中の二三を指摘してみても、それは結局なんらの価値もない漫談となってしまうであろうが、多くの場合に必ずしもそうとは限らない。ことにある一種の怪異に関する記録が豊富にあればあるほど、この可能性の範囲はかなりまで押しせばめられる。従ってやや「もっともらしい仮説」というまでには漕《こ》ぎつけられる見込みがあるのである。そこまで行けば、それはともかくも一つの仮説として存在する価値を認めなければならず、また実際科学者たちにある暗示を提供するだけの効果をもつ事も有りうるであろうと思われる。
 そういう意味で自分が従来多少興味をもっている怪異が若干ある。しかしこれを正当に研究するためにまず少なくも一通りは関係文献を古書の中から拾い集めてかかる必要がある。それは到底今の自分には急にできそうもない。それかと言っていつになったらそれができるという確かな見込みも立たない。
 それで、ただここにはほんの一つの空想、ただし多少科学的の考察に基づいた空想あるいは「小説」を備忘録として書き留めておく。もしこれらの問題に興味をもつほんとうの考証家があればありがたいと思うまでである。

       一

 その怪異の第一は、自分の郷里|高知《こうち》付近で知られている「孕《はらみ》のジャン」と称するものである。孕は地名で、高知の海岸に並行する山脈が浦戸湾《うらどわん》に中断されたその両側の突端の地とその海峡とを込めた名前である。この現象については、最近に、土佐《とさ》郷土史《きょうどし》の権威として知られた杜山居士《とざんこじ》寺石正路《てらいしまさみち》氏が雑誌「土佐史壇」第十七号に「郷土史断片」その三〇として記載されたものがある。「(前略)昔はだいぶ評判の事であったが、このごろは全くその沙汰《さた》がない、根拠の無き話かと思えば、「土佐今昔物語」という書に、沼澄《ぬまずみ》(鹿持雅澄《かもちまさずみ》翁《おう》)の名をもって左のとおりしるされている。
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孕の海にジャン[#「ジャン」に白丸傍点]と唱うる稀有《けう》のものありけり、たれしの人もいまだその形を見たるものなく、その物は夜半にジャーンと鳴り響きて海上を過ぎ行くなりけり、漁業をして世を渡るどちに、夜半に小舟浮かべて、あるは釣《つ》りをたれ、あるいは網を打ちて幸《さち》多かるも、このも[#「も」に「原」の注記]海上を行き過ぐればたちまちに魚騒ぎ走りて、時を移すともその夜はまた幸《さち》なかりけり、高知ほとりの方言に、ものの破談になりたる事をジャンになりたりというも、この海上行き過ぐるものよりいでたることなん語り伝えたりとや。
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 この文は鹿持翁の筆なればおおよそ小百年前のことにして孕《はらみ》のジャンはこのほどの昔よりもすでにその伝があったことが知れる(後略)。」寺石氏はこのジャンの意味の転用に関する上記の説の誤謬《ごびゅう》を指摘している。また終わりに諏訪湖《すわこ》の神渡りの音響の事を引き、孕のジャンは「何か微妙な地の震動に関したことではあるまいか」と述べておられる。
 私は幼時近所の老人からたびたびこれと同様な話を聞かされ
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