た。そしてもし記憶の誤りでなければ、このジャンの音響とともに「水面にさざ波が立つ」という事が上記の記載に付加されていた。
 この話を導き出しそうな音の原因に関する自分のはじめの考えは、もしや昆虫《こんちゅう》かあるいは鳥類の群れが飛び立つ音ではないかと思ってみたが、しかしそれは夜半の事だというし、また魚が釣《つ》れなくなるという事が確実とすれば単に空中の音波のためとは考えにくいと思われた。ところが先年|筑波山《つくばさん》の北側の柿岡《かきおか》の盆地へ行った時にかの地には珍しくない「地鳴り」の現象を数回体験した。その時に自分は全く神来的に「孕《はらみ》のジャンはこれだ」と感じた。この地鳴りの音は考え方によってはやはりジャーンとも形容されうる種類の雑音であるし、またその地盤の性質、地表の形状や被覆物の種類によってはいっそうジャーンと聞こえやすくなるであろうと思われうるたちのものである。そして明らかに一方から一方へ「過ぎ行く」音で、それが空中ともなく地中ともなく過ぎ去って行くのは実際他に比較するもののない奇異の感じを起こさせるものである。ちょうど自分が観測室内にいた時に起こった地鳴りの際には、磁力計の頂上に付いている管が共鳴してその頭が少なくも数ミリほど振動するのを明らかに認める事ができたし、また山中で聞いた時は立っている靴《くつ》の底に明らかにきわめて短週期の震動を感じた。これだけの振動があれば、適当な境界条件の下に水面のさざ波を起こしうるはずであるし、また水中の魚類の耳石等にもこれを感じなければならないわけである。もっとも、魚類がこの種の短週期弾性波に対してどう反応するかについて自分はあまりよく知らないが、これだけの振動に全然無感覚であろうとは想像し難い。
 地鳴りの現象については、わが国でもすでに大森《おおもり》博士らによっていろいろ研究された文献がある。そのほんとうの原因的機巧はまだよくわからないが、要するに物理的には全くただ小規模の地震であって、それが小局部にかつ多くは地殻《ちかく》表層《ひょうそう》に近く起こるというに過ぎないであろうと判断される。
 もし「孕《はらみ》のジャン」として知られた記録どおりの現象が、実際にあったものと仮定し、またこれが筑波地方《つくばちほう》の地鳴りと同一系統の地球物理学的現象であると仮定すると、それから多少興味のある地震学上のスペキュレーションを組み立てる事ができる。
 ジャンの記録はすでに百年前にはある。もっともこの記録では、当時これが現存したものか、あるいは過去の事として書いたものか、あまり判然とはしない。そしてとにかくわれわれの現時はないと言われている。自分の幼時にこの事を話した老人は現に自分でこれを体験したかのごとく話したが、それは疑わしいとしても、この老人の頭の若かった時代にこの話がかなりの生々しい色彩をもって流布されていた事は確からしい。
 土佐における大地変の最初の記録としては、西暦六八四年天武天皇の時代の地震で、土地五十万|頃《けい》が陥落して海となったという記録があり、それからずっと後には慶長九年(一六〇四)と宝永四年(一七〇七)ならびに安政元年(一八五四)とこの三回の大地震が知られており、このうちで、後の二回には、海浜の地帯に隆起や沈降のあった事が知られている。さて、これらの大地震によって表明される地殻《ちかく》の歪《ひずみ》は、地震のない時でも、常にどこかに、なんらかの程度に存在しているのであるから、もし適当な条件の具備した局部の地殻があればそこに対し小規模の地震、すなわち地鳴りの現象を誘起しても不思議はないわけである。そして、それがある時代には頻繁《ひんぱん》に現われ、他の時代にはほとんど現われなくなったとしても、それほど不思議な事とは思われない。
 今問題の孕《はらみ》の地形を見ると、この海峡は、五万分の一の地形図を見れば、何人も疑う余地のないほど明瞭《めいりょう》な地殻《ちかく》の割れ目である。すなわち東西に走る連山が南北に走る断層線で中断されたものである。さらにまたこの海峡の西側に比べると東側の山脈の脊梁《せきりょう》は明らかに百メートルほどを沈下し、その上に、南のほうに数百メートルもずれ動いたものである事がわかる。もっともこの断層の生成、これに伴なう沈下や滑動《かつどう》の起こった時代は、おそらく非常に古い地質時代に属するもので、その時の歪《ひずみ》が現在まで残っていようとは信ぜられない。しかしそのような著しい地殻の古きずが現在の歪に対して時々過敏になりうるであろうと想像するのは単に無稽《むけい》な空想とは言われないであろう。
 それで問題の怪異の一つの可能な説明としては、これは、ある時代、おそらくは宝永地震後、安政地震のころへかけて、この地方の地殻に特
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