もある。宅《うち》の裏門を出て小川に沿うて少し行くと村はずれへ出る、そこから先生の家の高い松が近辺の藁屋根《わらやね》や植え込みの上にそびえて見える。これにのうぜんかずらが下からすきまもなくからんで美しい。毎日昼前に母から注意されていやいやながら出て行く。裏の小川には美しい藻《も》が澄んだ水底にうねりを打って揺れている。その間を小鮒《こぶな》の群れが白い腹を光らせて時々通る。子供らが丸裸の背や胸に泥《どろ》を塗っては小川へはいってボチャボチャやっている。付け木の水車を仕掛けているのもあれば、盥船《たらいぶね》に乗って流れて行くのもある。自分はうらやましい心をおさえて川沿いの岸の草をむしりながら石盤をかかえて先生の家へ急ぐ。寒竹の生けがきをめぐらした冠木門《かぶきもん》をはいると、玄関のわきの坪には蓆《むしろ》を敷き並べた上によく繭を干してあった。玄関から案内を請うと色の黒い奥さんが出て来て「暑いのによう御精が出ますねえ」といって座敷へ導く。きれいに掃除《そうじ》の届いた庭に臨んだ縁側近く、低い机を出してくれる。先生が出て来て、黙って床の間の本棚《ほんだな》から算術の例題集を出してくれる。横に長い黄表紙で木版刷りの古い本であった。「甲乙二人の旅人あり、甲は一時間一里を歩み乙は一里半を歩む……」といったような題を読んでその意味を講義して聞かせて、これをやってごらんといわれる。先生は縁側へ出てあくびをしたり勝手のほうへ行って大きな声で奥さんと話をしたりしている。自分はその問題を前に置いて石盤の上で石筆をコツコツいわせて考える。座敷の縁側の軒下に投網《とあみ》がつり下げてあって、長押《なげし》のようなものに釣竿《つりざお》がたくさん掛けてある。何時間で乙の旅人が甲の旅人に追い着くかという事がどうしてもわからぬ、考えていると頭が熱くなる、汗がすわっている足ににじみ出て、着物のひっつくのが心持ちが悪い。頭をおさえて庭を見ると、笠松《かさまつ》の高い幹にはまっかなのうぜんの花が熱そうに咲いている。よい時分に先生が出て来て「どうだ、むつかしいか、ドレ」といって自分の前へすわる。ラシャ切れを丸めた石盤ふきですみからすみまで一度ふいてそろそろ丁寧に説明してくれる。時々わかったかわかったかと念をおして聞かれるが、おおかたそれがよくわからぬので妙に悲しかった。うつ向いていると水洟《みずばな》が自然にたれかかって来るのをじっとこらえている、いよいよ落ちそうになると思い切ってすすり上げる、これもつらかった。昼飯時が近くなるので、勝手のほうでは皿鉢《さらばち》の音がしたり、物を焼くにおいがしたりする。腹の減るのもつらかった。繰り返して教えてくれても、結局あまりよくはわからぬと見ると、先生も悲しそうな声を少し高くすることがあった。それがまた妙に悲しかった。「もうよろしい、またあしたおいで」と言われると一日の務めがともかくもすんだような気がして大急ぎで帰って来た。宅《うち》では何も知らぬ母がいろいろ涼しいごちそうをこしらえて待っていて、汗だらけの顔を冷水で清め、ちやほやされるのがまた妙に悲しかった。
五 芭蕉の花
晴れ上がって急に暑くなった。朝から手紙を一通書いたばかりで何をする元気もない。なんべんも机の前へすわって見るが、じきに苦しくなってついねそべってしまう。時々涼しい風が来て軒のガラスの風鈴が鳴る。床の前には幌蚊帳《ほろがや》の中に俊坊が顔をまっかにして枕《まくら》をはずしてうつむきに寝ている。縁側へ出て見ると庭はもう半分陰になって、陰と日向《ひなた》の境を蟻《あり》がうろうろして出入りしている。このあいだ上田《うえだ》の家からもらって来たダーリアはどうしたものか少し芽を出しかけたままで大きくならぬ。戸袋の前に大きな広葉を伸ばした芭蕉《ばしょう》の中の一株にはことし花が咲いた。大きな厚い花弁が三つ四つ開いたばかりで、とうとう開ききらずに朽ちてしまうのか、もう少ししなびかかったようである。蟻《あり》が二三匹たかっている。俊坊が急に泣き出したからのぞいて見ると蚊帳《かや》の中にすわって手足を投げ出して泣いている。勝手から妻が飛んでくる。坊は牛乳のびんを、投げ出した膝の上で自分にかかえて乳首から息もつかずごくごく飲む。涙でくしゃくしゃになった目で両親の顔を等分にながめながら飲んでいる。飲んでしまうとまた思い出したように泣き出す。まだ目がさめきらぬと見える。妻は俊坊をおぶって縁側に立つ。「芭蕉《ばしょう》の花、坊や芭蕉の花が咲きましたよ、それ、大きな花でしょう、実がなりますよ、あの実は食べられないかしら。」坊は泣きやんで芭蕉の花をさして「モヽモヽ」という。「芭蕉は花が咲くとそれきり枯れてしまうっておとうちゃま、ほんとう?」「そうよ、だが人間は花が
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