が威勢よくきしり始めるのであった。そのころある夜自分は妙な夢を見た。ちょうど運動場のようで、もっと広い草原の中をおぼろな月光を浴びて現《うつつ》ともなくさまようていた。淡い夜霧が草の葉末におりて四方は薄絹に包まれたようである。どこともなく草花のような香がするが何のにおいとも知れぬ。足もとから四方にかけて一面に月見草の花が咲き連なっている。自分と並んで一人若い女が歩いているが、世の人と思われぬ青白い顔の輪郭に月の光を受けて黙って歩いている。薄鼠色《うすねずみいろ》の着物の長くひいた裾《すそ》にはやはり月見草が美しく染め出されていた。どうしてこんな夢を見たものかそれは今考えてもわからぬ。夢がさめてみるとガラス窓がほのかに白んで、虫の音が聞こえていた。寝汗が出ていて胸がしぼるような心持ちであった。起きるともなく床を離れて運動場へおりて月見草の咲いているあたりをなんべんとなくあちこちと歩いた。その後も毎朝のように運動場へ出たが、これまでにここを歩いた時のような爽快《そうかい》な心持ちはしなくなった。むしろ非常にさびしい感じばかりして、そのころから自分は次第にわれとわが身を削るような、憂鬱《ゆううつ》な空想にふけるようになってしまった。自分が不治の病を得たのもこのころの事であった。
三 栗の花
三年の間下宿していた吉住《よしずみ》の家は黒髪山《くろかみやま》のふもともやや奥まった所である。家の後ろは狭い裏庭で、その上はもうすぐに崖《がけ》になって大木の茂りがおおい重なっている。傾く年の落ち葉木の実といっしょに鵯《ひよどり》の鳴き声も軒ばに降らせた。自分の借りていた離れから表の門への出入りにはぜひともこの裏庭を通らねばならぬ。庭に臨んだ座敷のはずれに三畳敷きばかりの突き出た小室《こべや》があって、しゃれた丸窓があった。ここは宿の娘の居間ときまっていて、丸窓の障子は夏も閉じられてあった。ちょうどこの部屋《へや》の真上に大きな栗《くり》の木があって、夏初めの試験前の調べが忙しくなるころになると、黄色い房紐《ふさひも》のような花を屋根から庭へ一面に降らせた。落ちた花は朽ち腐れて一種甘いような強い香気が小庭に満ちる。ここらに多い大きな蠅《はえ》が勢いのよい羽音を立ててこれに集まっている。力強い自然の旺盛《おうせい》な気が脳を襲うように思われた。この花の散る窓の内には内気な娘がたれこめて読み物や針仕事のけいこをしているのであった。自分がこの家にはじめて来たころはようよう十四五ぐらいで桃割れに結うた額髪をたらせていた。色の黒い、顔だちも美しいというのではないが目の涼しいどこかかわいげな子であった。主人夫婦の間には年とっても子が無いので、親類の子供をもらって育てていたのである。娘のほかに大きな三毛ねこがいるばかりでむしろさびしい家庭であった。自分はいつも無口な変人と思われていたくらいで、宿の者と親しいむだ話をする事もめったになければ、娘にもやさしい言葉をかけたこともなかった。毎日の食事時にはこの娘が駒下駄《こまげた》の音をさせて迎えに来る。土地のなまった言葉で「御飯おあがんなさいまっせ」と言い捨ててすたすた帰って行く。初めはほんの子供のように思っていたが一夏一夏帰省して来るごとに、どことなくおとなびて来るのが自分の目にもよく見えた。卒業試験の前のある日、灯《ひ》ともしごろ、復習にも飽きて離れの縁側へ出たら栗《くり》の花の香は慣れた身にもしむようであった。主家《おもや》の前の植え込みの中に娘が白っぽい着物に赤い帯をしめてねこを抱いて立っていた。自分のほうを見ていつにない顔を赤くしたらしいのが薄暗い中にも自分にわかった。そしてまともにこっちを見つめて不思議な笑顔《えがお》をもらしたが、物に追われでもしたように座敷のほうに駆け込んで行った。その夏を限りに自分はこの土地を去って東京に出たが、翌年の夏初めごろほとんど忘れていた吉住《よしずみ》の家から手紙が届いた。娘が書いたものらしかった。年賀のほかにはたよりを聞かせた事もなかったが、どう思うたものか、こまごまとかの地の模様を知らせてよこした。自分の元借りていた離れはその後だれも下宿していないそうである。東京という所はさだめてよい所であろう。一生に一度は行ってみたいというような事も書いてあった。別になんという事もないがどことなくなまめかしいのはやはり若い人の筆だからであろう。いちばんおしまいに栗《くり》の花も咲き候《そうろう》。やがて散り申し候とあった。名前は母親の名が書いてあった。
四 のうぜんかずら
小学時代にいちばんきらいな学科は算術であった。いつでも算術の点数が悪いので両親は心配して中学の先生を頼んで夏休み中先生の宅へ習いに行く事になった。宅《うち》から先生の所までは四五町
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