咲かないでも死んでしまうね」といったら妻は「マア」といったきり背をゆすぶっている。坊がまねをして「マア」という。二人で笑ったら坊もいっしょに笑った。そしてまた芭蕉の花をさして「モヽモヽ」といった。
六 野ばら
夏の山路を旅した時の事である。峠を越してから急に風が絶えて蒸し暑くなった。狭い谷間に沿うて段々に並んだ山田の縁を縫う小道には、とんぼの羽根がぎらぎらして、時々|蛇《へび》が行く手からはい出す。谷をおおう黒ずんだ青空にはおりおり白雲が通り過ぎるが、それはただあちこちの峰に藍色《あいいろ》の影を引いて通るばかりである。咽喉《のど》がかわいて堪え難い。道ばたの田の縁に小みぞが流れているが、金気を帯びた水の面は青い皮を張って鈍い光を照り返している。行くうちに、片側の茂みの奥から道を横切って田に落つる清水《しみず》の細い流れを見つけた時はわけもなくうれしかった。すぐに草鞋《わらじ》のまま足を浸したら涼しさが身にしみた。道のわきに少し分け入ると、ここだけは特別に樫《かし》や楢《なら》がこんもりと黒く茂っている。苔《こけ》は湿って蟹《かに》が這《ほ》うている。崖《がけ》からしみ出る水は美しい羊歯《しだ》の葉末からしたたって下の岩のくぼみにたまり、余った水はあふれて苔の下をくぐって流れる。小さい竹柄杓《たけびしゃく》が浮いたままにしずくに打たれている。自分は柄杓にかじりつくようにして、うまい冷たいはらわたにしむ水を味おうた。少し離れた崖の下に一株の大きな野ばらがあって純白な花が咲き乱れている。自分は近寄って強いかおりをかいで小さい枝を折り取った。人のけはいがするのでふと見ると、今までちっとも気がつかなかったが、茂みの陰に柴刈《しばか》りの女が一人休んでいた。背負うた柴を崖《がけ》にもたせて脚絆《きゃはん》の足を投げ出したままじっとこっちを見ていた。あまり思いがけなかったので驚いて見返した。継ぎはぎの着物は裾短《すそみじ》かで繩《なわ》の帯をしめている。白い手ぬぐいを眉深《まぶか》にかぶった下から黒髪が額にたれかかっている。思いもかけず美しい顔であった。都では見ることのできぬ健全な顔色は少し日に焼けていっそう美しい。人に臆《おく》せぬ黒いひとみでまともに見られた時、自分はなんだかとがめられたような気がした。思わずいくじのないお辞儀を一つしてここを出た。蝉《せみ》が鳴いて蒸し暑さはいっそうはげしい。今折って来た野ばらをかぎながら二三町行くと、向こうから柴を負うた若者が一人上って来た。身のたけに余る柴を負うてのそりのそりあるいて来た。たくましい赤黒い顔に鉢巻《はちまき》をきつくしめて、腰にはとぎすました鎌《かま》が光っている。行き違う時に「どうもお邪魔さまで」といって自分の顔をちらと見た。しばらくして振り返って見たら、若者はもう清水《しみず》のへん近く上がっていたが、向こうでも振りかえってこっちを見た。自分はなんというわけなしに手に持っていた野ばらを道ばたに捨てて行く手の清水へと急いで歩いた。
七 常山の花
まだ小学校に通《かよ》ったころ、昆虫《こんちゅう》を集める事が友だち仲間ではやった。自分も母にねだって蚊帳《かや》の破れたので捕虫網を作ってもらって、土用の日盛りにも恐れず、これを肩にかけて毎日のように虫捕《むしと》りに出かけた。蝶蛾《ちょうが》や甲虫《かぶとむし》類のいちばんたくさんに棲《す》んでいる城山《しろやま》の中をあちこちと長い日を暮らした。二の丸三の丸の草原には珍しい蝶やばった[#「ばった」に傍点]がおびただしい。少し茂みに入ると樹木の幹にさまざまの甲虫が見つかる。玉虫、こがね虫、米つき虫の種類がかずかずいた。強い草木の香にむせながら、胸をおどらせながらこんな虫をねらって歩いた。捕《と》って来た虫は熱湯や樟脳《しょうのう》で殺して菓子折りの標本箱へきれいに並べた。そうしてこの箱の数の増すのが楽しみであった。虫捕りから帰って来ると、からだは汗を浴びたようになり、顔は火のようであった。どうしてあんなに虫好きであったろうと母が今でも昔話の一つに数える。年を経ておもしろい事にも出会うたが、あのころ珍しい虫を見つけて捕えた時のような鋭い喜びはまれである。今でも城山の奥の茂みに蒸された朽ち木の香を思い出す事ができるのである。いつか城山のずっとすそのお堀《ほり》に臨んだ暗い茂みにはいったら、一株の大きな常山木《じょうざんぼく》があって桃色がかった花がこずえを一面におおうていた。散った花は風にふかれて、みぎわに朽ち沈んだ泥船《どろぶね》に美しく散らばっていた。この木の幹はところどころ虫の食い入った穴があって、穴の口には細かい木くずが虫の糞《ふん》と共にこぼれかかって一種の臭気が鼻を襲うた。木の幹の高い所に、大き
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