乱すことなく、また一定度以上の歩調を越すことなく、軍隊的に進行すればみごとに引き上げられるはずである。そのはずでなければならないのである。
 しかしこのできるはずのことがなかなか容易にできないのは多くの場合に群集が周章狼狽《しゅうしょうろうばい》するためであって、その周章狼狽《しゅうしょうろうばい》は畢竟《ひっきょう》火災の伝播《でんぱ》に関する科学的知識の欠乏から来るのであろう。火がおよそいかなる速度でいかなる方向に燃え広がる傾向があるか、煙がどういうぐあいに這《は》って行くものか、火災がどのくらいの距離に迫れば危険であるか、木造とコンクリートとで燃え方がどうちがうか、そういう事に関する漠然《ばくぜん》たる概念でもよいから、一度確実に腹の底に落ちつけておけば、驚くには驚いても決して極度の狼狽から知らず知らず取り返しのつかぬ自殺的行動に突進するようなことはなくてすむわけである。同時にまた消防当局の提供する避難機関に対する一通りの予備知識と、その知識から当然生まれるはずの信頼とをもっておりさえすれば、たとい女子供でも、そうあわてなくてすむわけである。
 しかしこのような訓練が実際上現在の
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