雷同心の芟除《さんじょ》にある。換言すれば勉《つと》めて旋毛《つむじ》を曲げてかかる事である。如何なる人が何と云っても自分の腑《ふ》に落ちるまでは決して鵜呑みにしないという事である。この旋毛曲《つむじまが》りの性質がなかったら科学の進歩は如何《どう》なったであろうか。
スコラ学派時代に科学の進歩が長い間全く停滞したのは、全くこの旋毛曲りが出なかったために外ならない。レネサンスはすなわち偉大な旋毛曲りの輩出した時代である。ガリレーはその執拗な旋毛曲りのために縄目の苦しみを受けなければならなかった。ニュートンがデカルト派の形而上学的宇宙観から割り出した物理学を離れて Hypotheses non fingo という立場からあのような偉業をしたのもそうである。Huyghens, Young が微粒子説を打破したのもファラデーが action at a distance を無視したのでも、アインスタインが時と空間に関する伝習的の考えを根本から引っくり返して相対率原理の基礎を置いたのでも、いずれにしても伝習の権威に囚われない偉人の旋毛曲りに外ならないのである。
美術家は画法に囚われて自然を見
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