科学に志す人へ
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)編輯員《へんしゅういん》からの
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)大抵|綺麗《きれい》に
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(例)[#地から1字上げ]
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新学年開始のこの機会に上記の題で何か書けという編輯員《へんしゅういん》からの御注文である。別に腹案もないからと一応御断りしたが、何でもいいから書けといわれる。自分の学生時代の想い出のようなものでもいいからといわれるので、たださしあたり思いつくままを書くことにする。上の表題は当らない。単に「追憶」とでもすべきであろう。
自分の学生時代と今とでは、第一時代が変っている。その上に自分の通って来た道は自分勝手の道であって、他人にすすめるような道とも思われない。しかしともかくも三十年の学究生活の霞を透して顧《かえり》みた昔の学生生活の想い出の中には、あるいは一九三四年の学生諸君にも多少の参考になるものがないとも限らない。
明治三十六年に大学を卒業してから今日までの学究生活の間に昔の学生時代の修業がどれだけどう役に立ったかと考えてみる。学校で教わった色々の六《むつ》かしいことは大抵|綺麗《きれい》に忘れてしまったように思われる。正常の教程課目として教わったことで後年直接そのままに役に立ったことは比較的わずかで教程以外に直接先生方から受けた実例教育の外には自分の勝手で自修したことだけが骨身に沁みて生涯の指導原理になっているような気がする。しかし、これは思い違いである。実際はやはり普通の講義や演習から非常なお蔭を蒙っていることは勿論であって、もしか当時そういう正規の教程を怠けてしまっていたらおそらく卒業後の学究生活の第一歩を踏出す力さえなかったに相違ない。講義も演習もいわば全く米の飯のようなもので、これなしに生きて行かれないことはよく知りながら、ついつい米の飯のおかげを忘れてしまって、ただ旨《うま》かった牛肉や鰻《うなぎ》だけを食って生きて来たような気がするのであろう。講義の内容は綺麗に忘れているようでも入用なときに本を読めば、どうにか分かるようにちゃんと頭の中へ道をあけておいてくれたものはやはり三十年昔の講義や演習であった。云わば実戦に堪える体力を養ってくれた教練のようなものであったのである。平凡な結論ではあるが、学生のときには講義も演習もやはり一生懸命勉強するに限るのであろう。
しかし、米の飯だけでは生きては行かれぬように、学校の正課を正直に勉強するだけで十分であったとは思われない。やはり色々の御馳走も食う必要があったと思われる。自分の学生時代にどんな御馳走があったか。思い出すままに順序もなくその二、三を書いてみる。
先生方や諸先輩の研究に対する熱心な態度を日常|眼《ま》のあたりに見ることによって知らず識らずに受けた実例の教訓が何といっても最大な影響をわれわれ学生に与えた。暑いも寒いも、夜の更《ふ》けるのも腹の減るのも一切感じないかと思われるような三昧《さんまい》の境地に入り切っている人達を見て、それでちっとも感激し興奮しないほどにわれわれの若い頭はまだ固まっていなかったのである。
大学へはいったらぜひとも輪講会《コロキウム》に出席するようにと、高等学校時代に田丸先生友田先生からいい聞かされていたから、一年生の頃からその会の傍聴に出席して、片隅で小さくなって聞いていた。話は六かしくて大抵は分からなかったが、ほんのわずかばかり分かることが無限の興味と刺戟を与え、そうして分からない大部分への憧憬と知識慾をそそるのであった。それよりも、先生方や先輩達の、本当に学問に余念のない愉快な態度が嬉しかった。今はもう皆故人となった佐野さん須藤さん大谷さんなどの諸先輩の快活で朗かな論争もその当時のコロキウムの花であった。アインシュタインの相対性原理の最初の論文を当時講師であった桑木さんが紹介され、それが種となって議論の花を咲かせたのもその頃の事であったのである。当時の輪講会は人数が少なくてそれだけに却《かえ》って極めてインチームなものであり、至って「尤もらしく」ない「勿体臭く」ないものであった。
学生の数も少なかったから図書室などもほとんど我物顔に出入りして手当り次第にあらゆる書物を引っぱり出してはあてもなく好奇心を満足しそうなものを物色した。古い『フィル・マグ』〔Philosophical Magazine〕の中から「首釣の力学」や「人玉について」などという論文を発見してひどく嬉しがったりしたのもその頃であった。レーノルズの全集をひやかしてこの異彩ある学者を礼讃してみたり、マクスウェルの伝記中にあるこの物理学者の戯作ヴァンパヤーの詩や、それを飾る愉快に稚拙
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