なペン画を嬉しがったりした。そんな下らないことが、今から考えてみると、みんな後年の自分の生涯になんらかの反響を残しているように思われる。
実験室でも先生から与えられた仕事以外に何かしら自分勝手のいたずらをした、その記憶があたかも美しい青春の夢のように心の底に留まっている。例えば、当時流行した紫色鉛筆の端に多分装飾のつもりで嵌《は》められてあったニッケルの帽子のようなものを取外してそれをシャーレの水面に浮かべ、そうしてそれをスフェロメーターの螺旋《らせん》の尖端で押し下げて行って沈没させ、その結果から曲りなりに表面張力を算出して先生にほめられたりしたことが今思い出しても可笑《おか》しいような子供らしい嬉しさを感じさせるのである。二年生のときにN先生の研究の手伝いの傍《かたわ》らそれに縁のあるミラージに関する色々の実験をしたことも生涯忘れられぬ喜びであった。三年生のときはT先生の磁力測量の結果の整理に関する仕事の御手伝いをしながら生意気にも色々勝手な議論を持ちだしたりした。それを学生のいうことでも馬鹿にしないで真面目に受け入れて、学問のためには赤子も大人も区別しない先生の態度に感激したりした。こういう本格的な研究仕事を手伝わされたことがどんなに仕合せであったかということを、本当に十分に估価《こか》し玩味《がんみ》するためにはその後の三十年の体験が必要であったのである。
たしか三年の冬休みに修善寺《しゅぜんじ》へ行ってレーリーの『音響』を読んだ。湯に入り過ぎたためにからだが変になって、湯から出ると寒気がするので、湯に入っては蒲団に潜ってレーリーを読み、また湯に入っては蒲団を冠ってレーリーを読んだ。風邪を引いた代りにレーリーがずいぶん骨身にしみて後日の役に立った。
楽しみに学問をするというのはいけないことかもしれないが、自分はどうも結局自分の我儘《わがまま》な道楽のために物理学関係の学問をかじり散らして来たものらしい。尤も、そうすることによって結局は奉公の第一義にかなうことが出来るという自分勝手な考えもありはしたが、とにかく興味の向くことなら何でも構わず貪《むさぼ》るように意地汚くかじり散らした。それが後年何の役に立つかということは考えなかったのであるが、そういう一見雑多な知識が実に不思議な程みんな後年の仕事に役に立った。それは動物や人間が丁度自分のからだに必要な栄養品やビタミンを無意識に食いたがるようなものではなかったかという気がするのである。
勝手放題な色々な疑問を、叱られても何でも構わずいくらでも自分にこしらえては自分で追究し、そうしてあきるとまた勝手に抛《ほう》り出してしまって自由に次の問題に頭を突っ込んだのであったが、そういう学生時代に起こしかけてそれっきり何年も忘れていたような問題が、やはり自分の無意識の間に解答を物色していたと見えて、十年二十年の後にまた頭をもたげて来て三十年後の今日ようやく少し分かりかけて来たような気のすることもある。どうも個々の人間の頭の中の考えの歴史は不思議なもので、通り一遍の理窟や下手な心理分析などを遥かに超越したものではないかと思われる。
誰であったか西洋の大家の言ったように、「問題をつかまえ、そうしてその鍵をつかむのは年の若いときの仕事である。年を取ってからはただその問題を守り立て、仕上げをかけるばかりだ」というのは、どうも多くの場合に本当らしい。それで誰でも、年の若い学生時代から何でも彼《か》でも沢山《たくさん》に遠慮なく惜気《おしげ》なく「問題の仕入れ」をしておく方がよくはないかという気がする。それにははじめからあまり一つの問題にのみ執着して他の事に盲目になるのも考えものではないかと思うのである。
抽象的な議論よりも、まず一番手近な自分自身の経験を語る方が学生諸君のために、却って参考になるかもしれないと思って、同僚先輩には大いに笑われるつもりでこんなことを書いてしまった。しかし、この個人的な経験はおそらく一般的には応用が利かないであろうし、ましてや、科学の神殿を守る祭祀《さいし》の司《つかさ》になろうと志す人、また科学の階段を登って栄達と権勢の花の山に遊ぼうと望む人達にはあまり参考になりそうに思われないのである。ただ科学の野辺に漂浪して名もない一輪の花を摘んではそのつつましい花冠の中に秘められた喜びを味わうために生涯を徒費しても惜しいと思わないような「遊蕩児《ゆうとうじ》」のために、この取止めもない想い出話が一つの道しるべともなれば仕合せである。[#地から1字上げ](昭和九年四月『帝国大学新聞』)
底本:「寺田寅彦全集 第四巻」岩波書店
1997(平成9)年3月5日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
1985(昭和60)年7月
※この作品は「帝
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