疑わしい。実際多くの場合にすぐれた科学者の論文は文章としてもまた立派なものであるように見える。文章の明徹なためには頭脳の明徹なことが必須条件《ひっすじょうけん》である。頭脳が透明であるのに母国語で書いた文章が晦渋をきわめているという場合は、よほどな特例であろうと思われるのである。
 反対に「乙某の論文は内容は平凡でも文章がうまいからおもしろい」という場合がある。これも自分には疑わしい。平凡|陳套《ちんとう》な事実をいかに修辞法の精鋭を尽くして書いてみても、それが少なくもちゃんとした科学者の読者に「おもしろい」というはずがないのである。そういう種類のものにはやはり必ず何かしら独創的な内察があり暗示があり、新しい見地と把握《はあく》のしかたがあり、要するになんらかの「生産能」を包有しているある物がなければならないのである。
 中学生時代に作文を作らされたころは、文章というものが内容を離れて存在するものと思っていた。それで懸命にいわゆる美文を暗唱したりしたが、そういう錯覚は年とともに消滅してしまった。修辞法は器械の減摩油のような役目はするが、器械がなくては仕事はできないのである。世阿弥《ぜあ
前へ 次へ
全55ページ中52ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング