とははなはだ容易であると思われる。
しかし一方でまた、たとえ日刊新聞や月刊大衆雑誌に掲載されたとしても、そういう弊に陥ることなくして、永久的な読み物としての価値を有するものもまた決して不可能ではないのである。たとえば前にあげたわが国の諸学者の随筆の中の多くのものがそれである。そういう永久的なものと、悪い意味でのジャーナリスチックなものとの区別は決してむつかしくはない。要するに読んだ後に、読まない前よりいくらか利口になるかならないかというだけのことである。そうして二度三度とちがった時に読み返してみるごとに新しき何物かを発見するかしないかである。つまり新聞雑誌には書かない最も悪いジャーナリストもあれば、新聞雑誌に書いてもジャーナリズムの弊には完全に免疫された人もありうるのである。この事に関する誤解が往々正常なる科学の普及を妨害しているように見える。これは惜しむべきことである。
文章と科学
「甲某の論文は内容はいいが文章が下手《へた》で晦渋《かいじゅう》でよくわからない」というような批評を耳にすることがしばしばある。はたしてそういうことが実際にありうるかどうか自分にははなはだ
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