科学と文学
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)真田三代記《さなださんだいき》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)日常|茶飯事的《さはんじてき》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)植物※[#「月+昔」、第3水準1−90−47]葉《しょくぶつさくよう》を
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緒言
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子供の時分に、学校の読本以外に最初に家庭で授けられ、読むことを許されたものは、いわゆる「軍記」ものであった。すなわち、「真田三代記《さなださんだいき》」、「漢楚軍談《かんそぐんだん》」、「三国志《さんごくし》」といったような人間味の希薄なものを読みふけったのであった。それから「西遊記《さいゆうき》」、「椿説弓張月《ちんせつゆみはりづき》」、「南総里見八犬伝《なんそうさとみはっけんでん》」などでやや「人情」がかった読み物への入門をした。親戚《しんせき》の家にあった為永春水《ためながしゅんすい》の「春色梅暦春告鳥《しゅんしょくうめごよみはるつげどり》」という危険な書物の一部を、禁断の木の実のごとく人知れず味わったこともあった。一方ではゲーテの「ライネケ・フックス」や、それから、そのころようやく紹介されはじめたグリムやアンデルセンのおとぎ話や、「アラビアン・ナイト」や「ロビンソン・クルーソー」などの物語を、あるいは当時の少年雑誌「少国民」や「日本の少年」の翻訳で読み、あるいは英語の教科書中に採録された原文で読んだりした。一方ではまた「経国美談」「佳人之奇遇《かじんのきぐう》」のごとき、当時では最も西洋臭くて清新と考えられたものを愛読し暗唱した。それ以前から先輩の読み物であった坪内《つぼうち》氏の「当世書生気質《とうせいしょせいかたぎ》」なども当時の田舎《いなか》の中学生にはやはり一つの新しい夢を吹き込むものであった。宮崎湖処子《みやざきこしょし》の「帰省」という本が出て、また別な文学の世界の存在を当時の青年に啓示した。一方では民友社《みんゆうしゃ》で出していた「クロムウェル」「ジョン・ブライト」「リチャード・コブデン」といったような堅い伝記物も中学生の机上に見いだされるものであった。同時にまた「国民小説」「新小説」「明治文庫」「文芸倶楽部《ぶんげいくらぶ》」というような純文芸雑誌が現われて、露伴《ろはん》紅葉《こうよう》等多数の新しい作家があたかもプレヤデスの諸星のごとく輝き、山田美妙《やまだびみょう》のごとき彗星《すいせい》が現われて消え、一葉《いちよう》女史をはじめて多数の閨秀作者《けいしゅうさくしゃ》が秋の野の草花のように咲きそろっていた。外国文学では流行していたアーヴィングの「スケッチ・ブック」やユーゴーの「レ・ミゼラブル」の英語の抄訳本などをおぼつかない語学の力で拾い読みをしていた。高等学校へはいってから夏目漱石先生に「オピアム・イーター」「サイラス・マーナー」「オセロ」を、それもただ部分的に教わっただけである。そのころから漱石先生に俳句を作ることを教わったが、それとてもたいして深入りをしたわけではなかった。
自分の少青年時代に受けた文学的の教育と言えば、これくらいのことしか思い出されない。そうして、その後三十余年の間に時おり手に触れた文学書の、数だけはあるいは相当にあるかもしれないが、自分の頭に深い強い印象を焼き付けたものと言ってはきわめて少数であるように思われる。日本の作家では夏目先生のものは別として国木田独歩《くにきだどっぽ》、谷崎潤一郎《たにざきじゅんいちろう》、芥川竜之介《あくたがわりゅうのすけ》、宇野浩二《うのこうじ》、その他数氏の作品の中の若干のもの、外国のものではトルストイ、ドストエフスキーのあるもの、チェホフの短編、近ごろ見たものでは、アーノルド・ベンネットやオルダス・ハクスレーの短編ぐらいなものである。
何ゆえに自分がここでこのような、読者にとってはなんの興味もない一私人の経験を長たらしく書き並べたかというと、これだけの前置きが、これから書こうとするきわめて特殊な、そうして狭隘《きょうあい》で一面的な文学観を読者の審判の庭に供述する以前にあらかじめ提出しておくべき参考書類あるいは「予審調書」としてぜひとも必要と考えられるからである。
もう一つ断わっておかなければならないことは、自分がともかくも職業的に科学者であるということである。少年時代に上記のごときおとぎ文学や小説戯曲に読みふけっているかたわらで、昆虫《こんちゅう》の標本を集めたり植物※[#「月+昔」、第3水準1−90−47]葉《しょくぶつさくよう》を作ったり、ビールびんで水素を発生させ
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