「歌う炎」を作ろうとして誤って爆発させたり、幻燈器械や電池を作りそこなったりしていたのである。そうして、中学校から高等学校へ移るまぎわに立ったときに、なんの躊躇《ちゅうちょ》もなく生涯《しょうがい》の針路を科学のほうに向けたのであった。そうして、今になって考えてみても自分の取るべき道はほかには決してなかったのである。思うにそのころの自分にとっては文学はただ受働的な享楽の対象に過ぎなかったが、科学の領域は自分の将来の主働的な生活に生きて行くためにいちばん適当な世界のように思われたのであった。
大学を卒業して大学院に入り、そうして自分の研究題目についていわゆるオリジナル・リサーチを始めてほんとうの科学生活に入りはじめたころに、偶然な機会でまた同時に文学的創作の初歩のようなものを体験するような回り合わせになった。そのころの自分の心持ちを今振り返って考えてみると、実に充実した生命の喜びに浸っていたような気がする。一方で家庭的には当時いろいろな不幸があったりして、心を痛め労することも決して少なくはなかったにかかわらず、少なくも自分の中にはそういうこととは係り合いのない別の世界があって、その世界のみが自分の第一義的な世界であり、そうして生きがいのある唯一の世界であるように思われたものらしい。その世界では「作り出す」「生み出す」ということだけが意義があり、それが唯一の生きて行く道であるように見えた。そうして、日々何かしら少しでも「作る」か「生む」かしない日は空費されたもののように思われたのである。もちろん若いころには免れ難い卑近な名誉心や功名心も多分に随伴していたことに疑いはないが、そのほかに全く純粋な「創作の歓喜」が生理的にはあまり強くもないからだを緊張させていたように思われる。全くそのころの自分にとっては科学の研究は一つの創作の仕事であったと同時に、どんなつまらぬ小品文や写生文でも、それを書く事は観察分析発見という点で科学とよく似た研究的思索の一つの道であるように思われるのであった。
その後三十年に近い生涯《しょうがい》の間には自分の考えにもいろいろの変遷がありはしたが、こういう過去の歴史の影響はおそらく生命の終わる日まで自分につきまとって離れることはできないであろうと思われる。
それはとにかく、以上のような経歴をもつ一私人が「文学」と「科学」とを対立させてながめる時に浮かんでくるいろいろな感想をここに有りのままに記録して本講座の読者にささげるということは、全く無意味のわざでもあるまいと考えたので、編集者の勧誘に甘えてここにつたない筆を執ることにした次第である。もとよりただ、一つの貧しい参考資料を提供するという以外になんらの意図はないのである。そういうわけで、もちろん、論文でもなく教程でもなく、全く思いつくままの随筆である。文学者の文学論、文学観はいくらでもあるが、科学者の文学観は比較的少数なので、いわゆる他山の石の石くずぐらいにはなるかもしれないというのが、自分の自分への申し訳である。
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言葉としての文学と科学
文学の内容は「言葉」である。言葉でつづられた人間の思惟《しい》の記録でありまた予言である。言葉をなくすれば思惟がなくなると同時にあらゆる文学は消滅する。逆に、言葉で現わされたすべてのものがそれ自身に文学であるとは限らないまでも、そういうもので文学の中に資料として取り入れられ得ないものは一つもない。子供の片言でも、商品の広告文でも、法律の条文でも、幾何学の定理の証明でもそうである。ピタゴラスの定理の証明の出て来る小説もあるのである。
ここで言葉というのは文字どおりの意味での言葉である。絵画彫刻でも音楽舞踊でも皆それぞれの「言葉」をもってつづられた文学の一種だとも言われるが、しかし、ここではそういうものは考えないことにする。
作者の頭の中にある腹案のようなものは、いかに詳細に組み立てられたつもりでも、それは文学ではない。またそれを口で話して一定の聴衆が聞くだけでもそれは文学ではない。象形文字であろうが、速記記号であろうが、ともかくも読める記号文字で、粘土板でもパピラスでも「記録」されたものでなければおそらくそれを文学とは名づけることができないであろう。つまり文学というものも一つの「実証的な存在」である。甲某が死ぬ前に考えていた小説は非常な傑作であった、と言ってもそれは全く無意味である。
実際作物の創作心理から考えてみても、考えていたものがただそのままに器械的に文字に書き現わされるのではなくて、むしろ、紙上の文字に現われた行文の惰力が作者の頭に反応して、ただ空で考えただけでは決して思い浮かばないような潜在的な意識を引き出し、それが文字に現われて、もう一度作者の頭に働きかけることによ
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