学の本質をゆがめて表現しているものも決して少なくない。また一方では、相当な科学者の書いたものでも、単に読者の退屈を紛らすためとしか思われないような、話の本筋とは本質的になんの交渉もないような事がらを五目飯のように交ぜたり、空疎な借りもののいわゆる「美文」を装飾的に織り込んだりしたようなものもまた少なくはないようである。いずれにしても著者の腹にない付け焼き刃の作物では科学的にはもちろん、文学的にもなんらの価値がありようはないのである。
 科学者が自分の体験によって獲得した深い知識を、かみ砕きかみ締め、味わい尽くしてほんとうにその人の血となり肉となったものを、なんの飾りもなく最も平易な順序に最も平凡な言葉で記述すれば、それでこそ、読者は、むつかしいことをやさしく、ある程度までは正しく理解すると同時に無限の興趣と示唆とを受けるであろうと思われる。
 そういう意味でまた通俗科学の講演筆記や、エッセーは立派な「創作品」であり「芸術品」でもありうるのである。取り扱ってある対象は人間界と直接交渉のない生物界あるいは無機界のことであっても、そういう創作であれば、必ず読者の対世界観、ひいてはまた人生観になんらかの新しい領土を加えないではおかないであろう。「読者の中の人間」を拡張し進化させるようなものならばそれを文学と名づけるになんの支障があろうとは思われないのである。

     ジャーナリズムと科学

 科学が文学の世界に接触するときに必然にあまりおもしろからぬ意味でのいわゆるジャーナリズムとの交渉が起こる。
 ジャーナリズムとはその語の示すとおり、その日その日の目的のために原稿を書いて、その時々の新聞雑誌の記事を作ることである。それ自身に別段悪い意味はないはずであるが、この定義の中にはすでにいろいろな危険を包んでいる。浅薄、軽率、不正確、無責任というようなものがおのずから付きまといやすい。それからまた読者の一時的の興味のために、すべての永久的なものが犠牲にされやすい。それからまた題材が時の流行に支配されるために、取材の範囲がせばめられ、同時にその題材と他の全体との関係が見失われやすい。
 そういうジャーナリズムの弊に陥ったような通俗科学記事のみならず、科学的論文と銘打ったものさえ決して少なくはないのである。多くの通俗雑誌や学会の記事の中でもそういうものを拾い出せとならば拾い出すことははなはだ容易であると思われる。
 しかし一方でまた、たとえ日刊新聞や月刊大衆雑誌に掲載されたとしても、そういう弊に陥ることなくして、永久的な読み物としての価値を有するものもまた決して不可能ではないのである。たとえば前にあげたわが国の諸学者の随筆の中の多くのものがそれである。そういう永久的なものと、悪い意味でのジャーナリスチックなものとの区別は決してむつかしくはない。要するに読んだ後に、読まない前よりいくらか利口になるかならないかというだけのことである。そうして二度三度とちがった時に読み返してみるごとに新しき何物かを発見するかしないかである。つまり新聞雑誌には書かない最も悪いジャーナリストもあれば、新聞雑誌に書いてもジャーナリズムの弊には完全に免疫された人もありうるのである。この事に関する誤解が往々正常なる科学の普及を妨害しているように見える。これは惜しむべきことである。

     文章と科学

「甲某の論文は内容はいいが文章が下手《へた》で晦渋《かいじゅう》でよくわからない」というような批評を耳にすることがしばしばある。はたしてそういうことが実際にありうるかどうか自分にははなはだ疑わしい。実際多くの場合にすぐれた科学者の論文は文章としてもまた立派なものであるように見える。文章の明徹なためには頭脳の明徹なことが必須条件《ひっすじょうけん》である。頭脳が透明であるのに母国語で書いた文章が晦渋をきわめているという場合は、よほどな特例であろうと思われるのである。
 反対に「乙某の論文は内容は平凡でも文章がうまいからおもしろい」という場合がある。これも自分には疑わしい。平凡|陳套《ちんとう》な事実をいかに修辞法の精鋭を尽くして書いてみても、それが少なくもちゃんとした科学者の読者に「おもしろい」というはずがないのである。そういう種類のものにはやはり必ず何かしら独創的な内察があり暗示があり、新しい見地と把握《はあく》のしかたがあり、要するになんらかの「生産能」を包有しているある物がなければならないのである。
 中学生時代に作文を作らされたころは、文章というものが内容を離れて存在するものと思っていた。それで懸命にいわゆる美文を暗唱したりしたが、そういう錯覚は年とともに消滅してしまった。修辞法は器械の減摩油のような役目はするが、器械がなくては仕事はできないのである。世阿弥《ぜあ
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