なくも理論上には解式は決定されるのであって、学者はただ数学という器械の取っ手をぐるりと回すだけのことである。これは理想的の場合であるが、実際には方程式の解が困難である場合に、いろいろな仮定、その場合に「もっともらしい」と考えられる仮定のもとに、いろいろの「省略」を行なう。すなわち一つの選択過程が行なわれる。この選択を決定する標準はもはや必ずしも普遍的単義的なものではなくて、学者の学的常識や内察や勘や、ともかくも厳密な意味では科学的でない因子の総合作用によってはじめて成立するものである。もちろんその省略が妥当であったかどうかを、最後にもう一度吟味しある程度まで実証的に判定し得られる場合もあるが、必ずしもそうでない場合がはなはだ多いのである。
 この自然現象の表示としての微分方程式の本質とその役目とをこういうふうに考えてみた後に、翻って文学の世界に眼を転じて、何かしらこれに似たものはないかと考えてみると、そこにいろいろな漠然《ばくぜん》とした類推の幻影のようなものが眼前に揺曳《ようえい》するように感ぜられるのである。
 もしも、人間の思惟《しい》の方則とでも名づけらるべきものがあるとすれば、それはどんなものであろうか。こういう、ほとんど無意義に近い漠然とした疑問に対して、何かしら答えなければならないとしたら、自分はそこにまず上記の微分方程式のことを思い出させるのも一つの道ではないかと思うのである。
 まず、最も簡単な例を取って気温と人間の感覚との関係を考えてみる。他の気象要素の条件が全部同一であるとしても、人のある瞬間の感覚は単にその瞬間の気温だけでは決定しない。その温度が上がりつつあるか下がりつつあるか、いかなる速度で上がりまた下がりつつあるか、その速度が恒同であるか、変化しているとすればどう変化しているか、そういう変化の時間的割合いかんによって感覚は多種多様になるであろう、それでもしも温度に関する感覚が若干の変数の数値で代表されうるとすれば、これらと気温との関係は若干の微分方程式で与えられ、そうして、それが人間の気温に対する感覚の方則を与えるであろう。しかし実際の事がらは決してこのように簡単ではなくて、人々の感覚は気温と共存する湿度、気圧風速日照等によるのみならず、人々のその瞬間以前におけるありとあらゆる物理的生理的心理的経験の総合された無限に多元的な複合《コンプレックス》の無限な変化によって、無限に多様な変化を見せるであろう。さらにもっともっと複雑な例を取って、たとえば人がその愛する人の死に対していかに感じいかに反応しいかに行動するかという場合になると、もはや決定さるべき情緒や行為を数量的に定めることもできないのみならず、これに連関する決定因子やその条件のどれ一つとして、物理的方法の延長の可能範囲に入り込むものはなくなってしまうのである。
 それにもかかわらず、以上の考察は一つの興味ある空想を示唆する。すなわち、人間の思惟《しい》の方則、情緒の方則といったようなものがある。それは、まだわれわれのだれも知らない微分方程式のようなものによって決定されるものである。われわれはその式自身を意識してはいないがその方則の適用されるいろいろの具体的な場合についての一つ一つの特殊な答解のようなものを、それもきわめて断片的に知っている。そうして、それからして、その方程式自身に対する漠然《ばくぜん》とした予感のようなものを持っているのである。それで、今もしここに一人のすぐれた超人間があって、それらの方程式の全体を把握《はあく》し、そうしていろいろな可能な境界条件、当初条件等を插入《そうにゅう》して、その解を求めることができたとする。そうしてその問題と解決と結論とを、われわれにわかる言葉で記述してわれわれに示したとする。それを読んだわれわれが、それによって人間界の現象について教えられることは、ちょうど理論物理学的論文によって自然界の物理的現象について教えられるのと似かよったものであるとも言われよう。
 しかし、こういう微分方程式は少なくも現在では夢想することさえ困難である。しかしそういうものへの道程の第一歩に似たようなものは考えられなくはない。
 物理的科学が今日の状態に達する以前、すなわち方則が発見され、そうして最初に数式化される前には、われわれはただ個々の具体的の場合の解式だけを知っていた。そうして、過去にあったあらゆる具体的の場合を験査し、またいろいろな場合を人工的に作るために「実験」を行なった。それらの経験と実験の、すべての結果を整理し排列して最後にそれらから帰納して方則の入り口に達した。
 文学は、そういう意味での「実験」として見ることはできないか。これが次に起こる疑問である。

     実験としての文学と科学

 たとえば勢力不滅の
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