一歩一歩その探究の歩を進めて行った道筋の忠実な記録を読んで行くときの同学読者の心持ちは、自分で行きたくて、しかも一人では行きにくい所へ手を取ってぐんぐん引っぱって行かれるような気がするであろう。また理論的の論文のすぐれたものを読むときにもやはりそれと似かよった感じをすることがしばしばあるであろう。もっとも読者の頭の程度が著者の頭の程度の水準線よりはなはだしく低い場合には、その著作にはなんらの必然性も認められないであろうし、従ってなんらの妙味も味わわれずなんらの感激をも刺激されないであろう。しかしこれは文学的作品の場合についても同じことであって、アメリカの株屋に芭蕉《ばしょう》の俳諧《はいかい》がわからないのも同様であろう。
 科学的の作品すなわち論文でも、ほんとうにそれを批判しうる人は存外少数である。残りの大多数の人たちは、そういう少数の信用ある批判者の批判の結果だけをそのままに採用して、そうしてその論文のアブストラクトと帰結とだけを承認することになっている。芭蕉《ばしょう》の俳諧《はいかい》がわからなくても芭蕉の句のどの句がいい句であるという事を知り、またそれを引用し、また礼賛《らいさん》することもできるのと同様である。これと反対にまた世俗に有名ないわゆる大家がたまたま気まぐれに書き散らした途方もない寝言のようなものが、存外有名になって、新聞記者はもちろん、相当な学者までもそれがあたかも大傑作であり世界的大論文であるかのごとく信ずるような場合もあるのである。これとても同じようなことは文学の世界にもしばしば起こるのであるが、ただ文学の場合には、あとからその「間違い」を証明することが困難であるのに、科学の場合には、それがはっきりと指摘できるから、この点は明らかにちがうのである。
 言葉としての科学が文学とちがう一つの重要な差別は、普通日常の国語とはちがった、精密科学の国に特有の国語を使うことである。その国語はすなわち「数学」の言葉である。
 数学の世界のいろいろな「概念」はすべて一種の言葉である。ただ日常の言葉と違って一粒えりに選まれた、そうしてきわめて明確に定義された内容を持っている言葉である。そうしてまたそれらの言葉の「文法」もきわめて明確に限定されていて少しの曖昧《あいまい》をも許さない。それで、一つの命題を与えさえすれば、その次に来るべき「文章」はおのずからきまってしまうのである。こういう意味で、数学というものは一種の「自働作文器械」とでも言われないことはないのである。しかし、事実は決してそれほど簡単ではない。ことに数学を物理的現象の研究に応用する場合になると、数学は他の畑から借用して来た一つの道具であって、これをどう使うかという段になると、そこにもう使用者の個性が遠慮なく割り込んで来る。それならばこそ、一つの同じ問題を取り扱った数理物理学的論文が、著者によっていろいろな違った内容と結論を示すのである。最初の問題のつかみ方、計算の途中に入り込む仮定や省略のしかたによって少しずついろいろ違った結論に達する。しかもそれらの各種の論文は互いに相《あい》鼎立《ていりつ》して、どちらも、それ自身としては正当でありうるのである。ただそれらの間の優劣を区別する場合の目標は、著者の主観によって選まれた問題の構成のしかたとその解法の選択いかんによって決定されるのであって、この優劣判断の際には、また審判者の個性のいかんによって、必ずしも衆議一決というわけに行かない場合がある。
 文学の場合でも、たとえば、ある史実を取り扱った戯曲を作るとすれば、作者の個性の差別によって、千差万別ありとあらゆる作品が可能であって、そうして、そのいずれもが傑作でもありうるのである。しかも物理学の場合などとは到底比較にならない多種多様の変化を示しうることはもちろんである。
 物理学で用いられる数学の中でも最も重要なものはいわゆる微分方程式である。これは物理学的ないろいろな量の相互の関係を決定する数式であるが、それがそれらの量自身の間の関係を示すだけでなく、一つの量が少し変わったときに他の量がそれにつれて少し変わる、その変化の比率を示すところのいわゆる微分係数によって書き現わされた関係式である。こういう微分方程式の一つの著しい特徴は、その式だけでは具体的の問題は一つも決定されない。すなわち一つの式が無限に多種多様な一群の問題のすべてを包括しており、また同時にそれらのおのおのをも代表しているのである。それで、もし、この式のほかに、場合によっていろいろ数はちがうが、とにかく数個の境界条件(boundary conditions)ならびに当初条件(initial conditions)を表示する数式を与えると、そこで始めて一つの具体的な問題が設立され、設立されると同時に少
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