は、何でもない事であろうが、これは現在の状況では、要求する方が無理であろうと思って、とうとう断念してしまった。それから一年くらいはその寒暖計が風呂場のどこかの隅に所在なさそうにころがっていたようであったが、いつ無くなるともなく見えなくなってしまってそれっきり永久に消えてなくなってしまったのである。これは適者生存自然淘汰の原理によって、元来寒暖計などあるまじき原始人の風呂場にあった寒暖計が、当然に自然に消失したものであろう。
チャムバーレンという人が云った皮肉な詞《ことば》に「日本人に独自なものは風呂桶とポエトリーだけだ」というのがある。その風呂なるものが実にはなはだ科学的には不合理不経済に出来ているものである。その不合理不経済なところにポエトリーはあるが現代には少し不向きである。
今日は暑くて九十度を越したなどとというあの寒暖計、体温が三十九度もあるなどというあの寒暖計、それから風呂を四十度にしてくれなどというあの寒暖計、いずれもみな物理学上でいうところの「温度」を測り示すものであるが、非科学的国民の頭には、この三つのものの示す温度がどうも別々のもののように感じられることもあるらし
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