ガポールやコロンボの暑さは、たしかに暑いには相違ないが、その暑さはいわば板についた暑さで、自然の風物も人間の生活もその暑さにぴったり調和しているので、暑さが美化され純化されている。今思いだすだけでも熱帯の暑さの記憶は実に美しい幻影で装飾されている。しかし岡山や高松の暑さの思い出にはそれがない。後楽園や栗林《りつりん》公園はやはり春秋に見るべきであろう。九十五度の風が吹くと温帯の風物は赤土色の憂愁に包まれてしまうのである。
喉元《のどもと》過ぎれば暑さを忘れるという。実際われわれには暑さ寒さの感覚そのものも記憶は薄弱であるように見える。ただその感覚と同時に経験した色々の出来事の記憶の印銘される濃度が、その時の暑さ寒さの刺戟によって、強調されるのではないかという気がする。そうしてその出来事を想いだす時にはその暑寒の感覚はもう単なる概念的の抜殻になってしまっているようである。
今年の夏も相当に暑い。宅のすぐ向う側に風呂屋が建つことになって、昨日から取毀《とりこわ》しが始まった。この出来事によって今年の夏の暑さの記憶は相当に濃厚なものになるであろうと思われる。
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