て休み休みしたので、とうとう一日に十一杯の氷水をのんだ。そうして下宿へ帰ると井戸端へ行って水ごりをとった。それでも、あるいはそのおかげで、からだに別条はなかった。
 滞欧中の夏はついに暑さというものを覚えなかったが、アメリカへ渡っていわゆる「熱波」の現象を体験することを得た。五月初旬であったかと思う。ニューヨークの宿へ荷物をあずけて冬服のままでワシントンへ出かけた時には春のような気候であった。華府《ワシントン》を根拠にしてマウント・ウェザーの気象台などを見物して、帰ってくると非常な暑さで道路のアスファルトは飴《あめ》のようになり、馬が何頭倒れたといううわさである。その暑さに冬服を着て各所を歴訪した。夜寝ようとするとベッドが焼けつくようで眠られない。心臓の鼓動が異常に烈しくなる。堪え兼ねてボーイを呼んで大きな氷塊を取寄せてそれを胸に載せて辛うじて不眠の一夜を過ごした。その時に氷塊を持ってぬっと出現した偉大なニグロのボーイの顔が記憶に焼きつけられて残っている。それから、ウェザー・ビュローの若い学者と一緒にあるいた。ある公衆食堂で昼飯を食ったときに「君、デヴィルド・クラブを食ってみないか」というから、何だと聞くと、蟹肉《かににく》に辛い香料をいれてホットにしてあるから、それで「デヴィルド」だといって聞かされた。このワシントンの「熱波」の記憶にはこのデヴィルド・クラブとあのニグロの顔とが必ずクローズアップに映出されるのである。用事をすませてバルチモーアに立つという日に、急に「熱波」が退却して寒暖計は一ととびに九十五度から六十度に下がってしまったのである。
 父が亡くなった翌年の夏、郷里の家を畳んで母と長女を連れ、陸路|琴平《ことひら》高松を経て岡山で一泊したその晩も暑かった。宿の三階から見下ろす一町くらい先のある家で、夜更けるまで大声で歌い騒ぎ怒鳴り散らすのが聞こえた。雨戸をしめに来た女中がこの騒ぎを眺めながら「またお米があがったそうな」といった。聞いてみると、それは米相場をやる人の家で、この家の宴楽《えんらく》の声が米の値段のメートルだというのであった。
 その後再び高松を通過した時に遭った暑さも、私有レコード中の著しいものである。風に吹かれるとかえって余計に暑くて窒息しそうで、こうなると街路の柳の夕風に揺らぐのが、かえって暑さそのものの象徴であるように思われた。
 シンガポールやコロンボの暑さは、たしかに暑いには相違ないが、その暑さはいわば板についた暑さで、自然の風物も人間の生活もその暑さにぴったり調和しているので、暑さが美化され純化されている。今思いだすだけでも熱帯の暑さの記憶は実に美しい幻影で装飾されている。しかし岡山や高松の暑さの思い出にはそれがない。後楽園や栗林《りつりん》公園はやはり春秋に見るべきであろう。九十五度の風が吹くと温帯の風物は赤土色の憂愁に包まれてしまうのである。
 喉元《のどもと》過ぎれば暑さを忘れるという。実際われわれには暑さ寒さの感覚そのものも記憶は薄弱であるように見える。ただその感覚と同時に経験した色々の出来事の記憶の印銘される濃度が、その時の暑さ寒さの刺戟によって、強調されるのではないかという気がする。そうしてその出来事を想いだす時にはその暑寒の感覚はもう単なる概念的の抜殻になってしまっているようである。
 今年の夏も相当に暑い。宅のすぐ向う側に風呂屋が建つことになって、昨日から取毀《とりこわ》しが始まった。この出来事によって今年の夏の暑さの記憶は相当に濃厚なものになるであろうと思われる。
[#地から1字上げ](昭和五年八月『東京朝日新聞』)

      四 験潮旅行

 明治三十七年の夏休みに陸中|釜石《かまいし》附近の港湾の潮汐《ちょうせき》を調べに行ったときの話である。塩釜《しおがま》から小さな汽船に乗って美しい女学生の一行と乗合せたが、土用波にひどく揺られてへとへとに酔ってしまって、仙台で買って来たチョコレートをすっかり吐いてしまった。釜石の港へはいると、何とも知れない悪臭が港内の空気に滲み渡っていて、浜辺に近づくほどそれが猛烈になる。夥《おびただ》しいかもめの群れが渦巻いている。いかの大漁があったのが販路を失って浜で腐ったのであった。上陸後半日もすると、われわれ一行の鼻の神経は悪臭に対して無感覚となって、うまく飯が食えるようになった。
 千歳《せんざい》という岬端《こうたん》の村で半日くらい観測した時は、土地の豪家で昼食を食わしてもらった。生来見たことのない不気味な怪物のなますを御馳走になった。それがホヤであった。海へはいって泳いでみたら、恐ろしく冷たいので、ふるえ上がってしまった。そこから吉浜《よしはま》まで海岸の雨の山道を、験潮器を背負って、苫《とま》をかぶってあるいていると、ホトト
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