戸時代の大火の記録をその時代の地図と較べながら焼失区域図を作って過ごした。仕事はある意味では器械的であるが一つ一つの記録を読んで行くうちに昔の江戸の生活が、小説や歴史の書物で見るよりも遥かに如実《にょじつ》に窺《うかが》われて実に面白かった。昔の地図と今の電車線路入りの地図と較べているうちに色々のことを発見して独りで面白がることも出来た。
今年はある目的があって、陸地測量部五万分一地形図を一枚一枚調べて河川の流路を青鉛筆で記入し、また山岳地方のいわゆる変形地を赤鉛筆で記入することをやっている。河の流れをたどって行く鉛筆の尖端が平野から次第に谿谷《けいこく》を遡上《さかのぼ》って行くに随って温泉にぶつかり滝に行当りしているうちに幽邃《ゆうすい》な自然の幻影がおのずから眼前に展開されて行く。谿谷の極まるところには峠があって、その向う側にはまた他の谿谷が始まる、それを次第にたどって行くといつの間にか思わぬ国の思わぬ里に出て行く。
去年の夏は研究所で油の蒸餾《じょうりゅう》に関する実験をやった。ブンゼン燈のバリバリと音を立てて吹き付ける焔の輻射《ふくしゃ》をワイシャツの胸に受けながらフラスコの口から滴下する綺麗な宝石のような油滴を眺めているのは少しも暑いものではなかった。
夕方井戸水を汲んで頭を冷やして全身の汗を拭うと藤棚の下に初嵐の起るのを感じる。これは自分の最大のラキジュリーである。
夜は中庭の籐椅子に寝て星と雲の往来を眺めていると時々流星が飛ぶ。雲が急いだり、立止まったり、消えるかと思うとまた現われる。大きな蛾《が》がいくつとなくとんで来て垣根の烏瓜《からすうり》の花をせせる。やはり夜の神秘な感じは夏の夜に尽きるようである。
[#地から1字上げ](昭和五年七月『大阪朝日新聞』)
三 暑さの過去帳
少年時代に昆虫標本の採集をしたことがある。夏休みは標本採集の書きいれ時なので、毎日捕虫網を肩にして旧城跡の公園に出かけたものである。南国の炎天に蒸された樹林は「小さなうごめく生命」の無尽蔵であった。人のはいらないような茂みの中には美しいフェアリーや滑稽《こっけい》なゴブリンの一大王国があったのである。後年「夏夜の夢」を観たり「フォーヌの午後」を聞いたりするたびに自分は必ずこの南国の城山の茂みの中の昆虫の王国を想いだした。しかし暑いことも無類であった。それは乾燥したさわやかな暑さとちがって水蒸気で飽和された重々しい暑さであった。「いつでもまるで海老《えび》をうでたように眼の中まで真赤になっていた」という母の思い出話をよく聞かされた。もっとも虫捕りに涼しいのもあった。朝まだ暗いうちに旧城の青苔《あおごけ》滑らかな石垣によじ上って鈴虫の鳴いている穴を捜し、火吹竹で静かにその穴を吹いていると、憐れな小さな歌手は、この世に何事が起ったかを見るために、隠れ家の奥から戸口に匍《は》いだしてくる。それを待構えた残忍な悪太郎は、蚊帳《かや》の切れで作った小さな玉網でたちまちこれを俘虜《ふりょ》にする。そうして朝の光の溢るる露の草原を蹴散らして凱歌をあげながら家路に帰るのである。
中学時代に、京都に博覧会が開かれ、学校から夏休みの見学旅行をした。高知から三、四百トンくらいの汽船に寿司詰になっての神戸までの航海も暑い旅であった。荷物用の船倉に蓆《むしろ》を敷いた上に寿司を並べたように寝かされたのである。英語の先生のHというのが風貌魁偉《ふうぼうかいい》で生徒からこわがられていたが、それが船暈《ふなよい》でひどく弱って手ぬぐいで鉢巻してうんうんうなっていた。それでも講義の時の口調で「これではブラックホールの苦しみに優るとも劣ることはない」といって生徒を笑わせた。当時マコーレーのクライヴ伝を講じていて、ブラックホールの惨劇が一同の記憶に新鮮であったのである。
酷寒の季節に酷暑に遭った例がある。高等学校時代のある冬休みに大牟田《おおむた》炭坑を見学に行った時のことである。冬服にメリヤスを重ね着した地上からの訪問者には、地下増温率によって規定された坑内深所の温度はあまりに高過ぎた。おまけに所々に蒸気機関があり、そのスチームパイプが何本も通っているのである。坑夫等はもちろん裸体で汗にぬれた膚《はだ》にカンテラの光を無気味に反映していた。坑内では時々人殺しがある。しかし下手人は決して分らない。こんな話を聞かされたりして威《おど》されていたために、いっそうの暑さを感じたのかもしれない。やっと地上へ出たときに白日の光の有難味《ありがたみ》を始めて覚えたのである。
高等学校を卒業していよいよ熊本を引上げる前日に保証人や教授方に暇《いとま》ごいに廻った。その日の暑さも記憶の中に際立《きわだ》って残っているものである。卒倒しそうになると氷屋へはいっ
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