ギスが啼《な》いた。根白《こんぱく》というところで煙草を買おうと思ったが、巻莨《まきたばこ》はおろか刻煙草《きざみたばこ》もない。宿屋の親爺《おやじ》ののみしろを一服めぐんでもらったので、喜んで吸ってみると、それは実に不思議な強烈な原始的の味をもった煙草であった。煙草というものに対するわれわれの概念の拡張の可能性の極限を暗示するものであった。
 吉浜へ行っても煙草がなく、菓子がない。黒砂糖でもないかと聞いて歩いたが徒労であった。煙草と菓子の中毒にかかっている文明病患者は、こういうところへ来ると、頭がぼんやりしてしまう。そうして朝から晩まで鱒《ます》一点張りの御馳走をうけた。実にテンポのゆるやかな国であった。
 日露戦争当時であって、つい数日前露艦がこの辺の沖に見えたという噂もあった。われわれが験潮器を浜に据えて、鉛管を海中へ引っぱっていたので、何か水雷でもしかけているという噂をされたそうである。
 この浜の便所はおそらく世界一の広々とした明るい便所で、二人並んで、ゆるゆる談じながら用を達すことが出来るしかけである。そして子供の時分から話にだけは聞いていたチュウギなるものが、目前の事実としてちゃんと鼻のさきの小函《こばこ》に入れてあった。これは教育博物館あたりに保存してほしい資料である。[#地から1字上げ](昭和四年七月『大阪朝日新聞』)



底本:「寺田寅彦全集 第三巻」岩波書店
   1997(平成9)年2月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:noriko saito
2004年8月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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