晩年には書のほうも熱心であった。滝田樗陰《たきたちょいん》君が木曜面会日の朝からおしかけて、居催促で何枚でも書かせるのを、負けずにいくらでも書いたそうである。自分はいつでも書いてもらえるような気がしてついつい絵も書も一枚ももらわないでいたら、いつか先生からわざわざ手紙を添えて絹本に漢詩を書いたのを贈られた。千駄木《せんだぎ》時代の絵はがきのほかにはこれが唯一の形見になったのであったが、先生死後に絵の掛け物を一幅御遺族から頂戴《ちょうだい》した。
 謡曲を宝生新《ほうしょうしん》氏に教わっていた。いつか謡《うた》って聞かされたときに、先生の謡は巻き舌だと言ったら、ひどいことを言うやつだと言っていつまでもその事を覚えておられた。
 いつか早稲田《わせだ》の応接間で先生と話をしていたら廊下のほうから粗末な服装をした変な男が酔っぱらったふうでうそうそはいって来て先生の前へすわりこんだと思うと、いきなり大声で何かしら失礼な口調でののしり始めた。あとで聞くとそれはM君が連れて来た有名な過去の文士のOというのであった。連れて来たM君はこの意外の光景にすっかり面食らって立ち往生をしたそうであるが、
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