晩年には書のほうも熱心であった。滝田樗陰《たきたちょいん》君が木曜面会日の朝からおしかけて、居催促で何枚でも書かせるのを、負けずにいくらでも書いたそうである。自分はいつでも書いてもらえるような気がしてついつい絵も書も一枚ももらわないでいたら、いつか先生からわざわざ手紙を添えて絹本に漢詩を書いたのを贈られた。千駄木《せんだぎ》時代の絵はがきのほかにはこれが唯一の形見になったのであったが、先生死後に絵の掛け物を一幅御遺族から頂戴《ちょうだい》した。
謡曲を宝生新《ほうしょうしん》氏に教わっていた。いつか謡《うた》って聞かされたときに、先生の謡は巻き舌だと言ったら、ひどいことを言うやつだと言っていつまでもその事を覚えておられた。
いつか早稲田《わせだ》の応接間で先生と話をしていたら廊下のほうから粗末な服装をした変な男が酔っぱらったふうでうそうそはいって来て先生の前へすわりこんだと思うと、いきなり大声で何かしら失礼な口調でののしり始めた。あとで聞くとそれはM君が連れて来た有名な過去の文士のOというのであった。連れて来たM君はこの意外の光景にすっかり面食らって立ち往生をしたそうであるが、その時先生のこの酔漢に対する応答の態度がおもしろかった。相手の酔っぱらいの巻き舌に対して、どっちも負けずに同じような態度と口調で、小気味よくやりとりをしていた。負けぬ気の生粋《きっすい》の江戸ッ子としての先生を、この時目前に見ることができたような気がするのであった。
先生最後の大患のときは、自分もちょうど同じような病気にかかって弱っていた。江戸川《えどがわ》畔の花屋でベコニアの鉢《はち》を求めてお見舞いに行ったときは、もう面会を許されなかった。奥さんがその花を持って病室へ行ったら一言「きれいだな」と言われたそうである。勝手のほうの炉のそばでM医師と話をしていたら急に病室のほうで苦しそうなうなり声が聞こえて、その時にまた多量の出血があったようであった。
臨終には間に合わず、わざわざ飛んで来てくれたK君の最後のしらせに、人力にゆられて早稲田まで行った。その途中で、車の前面の幌《ほろ》にはまったセルロイドの窓越しに見る街路の灯《ひ》が、妙にぼやけた星形に見え、それが不思議に物狂わしくおどり狂うように思われたのであった。
先生からはいろいろのものを教えられた。俳句の技巧を教わったというだ
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