に対しては深い興味をもっていて、特に科学の方法論的方面の話をするのを喜ばれた。文学の科学的研究方法といったような大きなテーマが先生の頭の中に絶えず動いていたことは、先生の論文や、ノートの中からも想像されるであろうと思う。しかし晩年には創作のほうが忙しくて、こうした研究の暇がなかったように見える。
西片町《にしかたまち》にしばらくいて、それから早稲田南町《わせだみなみちょう》へ移られても自分は相変わらず頻繁《ひんぱん》に先生を訪問した。木曜日が面会日ときまってからも、何かと理屈をつけては他の週日にもおしかけて行ってお邪魔をした。
自分の洋行の留守中に先生は修善寺《しゅぜんじ》であの大患にかかられ、死生の間を彷徨《ほうこう》されたのであったが、そのときに小宮《こみや》君からよこしてくれた先生の宿の絵はがきをゲッチンゲンの下宿で受け取ったのであった。帰朝して後に久々で会った先生はなんだか昔の先生とは少しちがった先生のように自分には思われた。つまりなんとなく年を取られたというのでもあろう。かえるの声のまねをするような先生はもういなかった。昔かいた水彩画の延長と思われる一流の南画のようなものをかいて楽しんでおられた。無遠慮な批評を試みると口を四角にあいて非常に苦《にが》い顔をされたが、それでも、その批評を受けいれてさらに手を入れられることもあった。先生は一面非常に強情なようでもあったが、また一面には実に素直に人の言う事を受けいれる好々爺《こうこうや》らしいところもあった。それをいいことにして思い上がった失礼な批評などをしたのは済まなかったような気がする。いつかおおぜいで先生を引っぱって浅草《あさくさ》へ行ってルナパークのメリーゴーラウンドに乗せたこともあったが、いかにも迷惑そうではあったが若い者の言うなりになって木馬にのっかってぐるぐる回っていた。そのころよく赤城下《あかぎした》の骨董店《こっとうてん》をひやかして、「三円の柳里恭《りゅうりきょう》」などを物色して来ては自分を誘ってもう一ぺん見に行かれたりした。京橋《きょうばし》ぎわの読売新聞社で第一回のヒューザン会展覧会が開かれたとき、自分が一つかなり気に入った絵があって、それを奮発して買おうかと思うという話をしたら、「よし、おれが見てやる」と言って同行され、「なるほど。これはいいから買いたまえ」といわれたこともあった。
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