たわらにかなでられるヴァイオリンの弦のしらべに変わる。この音の流れて行く末にシャトーのバルコニーが現われて夢見るような姫君のやるせない歌の中にこの同じ主題が繰り返さるる。そうして最後のリフレーンで「イズンティット・ロマーン」まで歌った最後の「ティック」の代わりに、バルコンの下から忍びよるド・サヴィニャク伯爵の梯子《はしご》が石欄に触れる「ティック」の音を置き換えてある。ばかげているようであるが、この音で夢の世界から現実の世界へ観客を呼び返す役目をつとめさせているのである。
 公爵のシャトーの中のかび臭い陰気な雰囲気《ふんいき》を描くためにいろいろな道具が使われているうちに、姫君の伯母《おば》三人のオールドミスが姫君の病気|平癒《へいゆ》を祈る場面がある。それが巫女《みこ》の魔法を修する光景に形どって映写されているようであるが、ここの伴奏がこれにふさわしい凄惨《せいさん》の気を帯びているように思う。哀れな姫君の寝姿がピアニシモで消えると同時に、グヮーッとスフォルザンドーで朗らかなパリの騒音を暗示する音楽が大波のようにわき上がり、スクリーンにはパリの町の全景が映出される。ここの気分の急角度
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