効果を生じるかもしれない。これに反して罪悪の外側のゆがんだ輪郭がいたずらに読者の病的な好奇心を刺激し、ややもすれば「罪の享楽」を暗示するだけであったらその影響ははたしてどうであろう。
罪悪と反対な人間の善行に関する記事もまれには見受けるが、それがひとたび新聞記事となって現われると不思議にその善《よ》い事の「中味」が抜けてしまって、妙にいやな気持ちの悪い「輪郭」だけになっている場合がかなり多いように思われる。そういう種類の記事を読んでいて、人事《ひとごと》ながらもひとりで顔の赤くなる場合がありはしないか。
しかしこういう不満は今ここで論じている問題とは別問題である。
あらゆる記事がこれらの欠点を脱却して非常に理想的にできたとした上で、それをわれわれが日刊新聞によって朝夕に知る事がどれだけ必要かというのが現在の問題である。それが必要でないという事になれば、ましてや不完全不真実な記事を毎日あわただしく読む事の価値ははたしてどうなるであろう。
私がこういう事をいうのは畢竟《ひっきょう》あまりに新聞記事というものの価値に重きをおき過ぎるからの事だという人もあろう。
なるほど新聞記事を
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